快楽原則の側から見た場合、それだけでなくなるようにするものとしては、
・快楽原則の抑圧である現実原則
・快楽原則の彼岸である死の欲動
があって、それぞれ興味深い論点がある
んー、「母のファルスの欠如に同一化する」も解釈が難しく、というか難しすぎるので快楽原則100%で涅槃まで行く主体とするが、
・母のファルスはあり涅槃まで行ってる主体もいるが俺ではない(=きょうだい複合的なもの。神経症水準ではやや倒錯的。精神病水準ではパラノイア)
・母のファルスになれば涅槃まで行けるがそれは父に禁止されている(強迫神経症)
・逆手に取って母のファルスに対してそれなりに悪くないポジョンにいるふりをする(ヒステリー)
・そも母のファルスがあり得ない(スキゾ的? あるいは現勢神経症や発達障害圏とかであるかも)
・私は母のファルスである(自閉症)
……という感じで色々な主体のタイプごとに記述できそうではある
現実原則は考え方が二つあって、
死の欲動から派生してて快楽原則を事後的な幻想として生み出している象徴的なシステムだよ、というのが一つ。まあ我慢してれば我慢しなければ本当はすごい楽しいという幻想がキープできるという類
逆に、快楽原則の派生が現実原則で、時間的な先延ばしを認めた快楽原則だよ、説
この二つを一つにまとめていいかは微妙、なんだけど、時間性とか唐突に入ってくる仕組みが後者だと説明できないので、前者の方が一応プリミティブではある。夢はない