ひとまず、リベラリズム的な普遍的正義の不在+多文化主義的な善の散乱→「枠」(ノージック)としてのネオリベユートピアの勝利……という状況の中で、リベラルな差異のデモクラシーとラディカルな敵対性のデモクラシーの間のジレンマをいかに超えていけるか……みたいな問題関心が自分の中にはあるらしい(日本ポリティカルフィクションでは『進撃の巨人』がそれにぶつかっていた)。ラディカルデモクラシーではもうダメだけれど、リベラルな対話や差異の政治にも戻れない。じゃあどうする。みたいな。マイノリティ運動とネオリベが野合=「結婚」(フレイザー)して、LGBTも多様性も資本主義が実現するという錯覚が生じ、多文化主義こそが現在のニヒリズムを象徴するものになってしまう(かに見える)。『ブラックパンサー1』で、ラディカルな黒人運動がむしろヴィラン化されて、国際協調路線へと骨抜きされてしまったように。ディズニー的シスターフッドもマーベル(フェーズ4)も、そこで苦闘しているように見える。
フェーズ4では、混迷していく人間的多様性のすり合わせと合意形成に疲弊して、ジジェク的に言えばいわば「非人間主義への撤退」が生じている。社会運動でいえば、それは気候正義/動物倫理/批判的人類学などの「脱人間主義的転回」(非人間的転回)に対応するだろう。そこから見れば、人間同士の多様性や交差性(性、障害、民族)それ自体が「人間主義」に過ぎないとして相対化される(かにみえる)から。『エターナルズ』はまさにそうした矛盾に引き裂かれた作品だろう。あるいは、マルチバース(平行世界)という新たな設定こそが、正義の責任の果てしないインフレ(今や平行世界の他者にまでヒーローは責任を取らねばならない!)という疲弊を象徴しているように見える。『スパイダーマン3』の陰鬱で重苦しい結末は、そのことを象徴するように見える。
それでいえば、現在の文化相対主義のアポリアは、価値観の相対化が進み、敵の敵性もまた無限に相対化されていく(敵には敵の戦う理由があると判断される)ために、ヴィランがもはや「有害な男性性」にしか見出し得なくなった、という現象に示されているのかもしれない。男性特権的な構造を破壊し、「男」さえ駆逐すれば、真の多様性が実現されるはずである、と。マーベルで言えばたとえば、フェミニズム/シスターフッド性を積極的に導入していったフェイズ4の『キャプテンマーベル』『ブラックウィドウ』『エターナルズ』などがそうした作品である。しかし「男」を諸悪の権化とすることによって、かえって、ネオリベ的多文化主義のニヒリズムは延命されてしまう。ではどうすればいいのか。
ところで、フェーズ4のマルチバース設定には、何か、21世紀的なニヒリズムを象徴するような感触があるように思える。それは何か。たとえば20世紀的ニヒリズムは、「固有の実存的な死すら死ねない匿名的で無意味な死=記憶の穴」(それを象徴するのが強制収容所とポストモダン的消費社会)に象徴されるだろう。それに対し、21世紀ニヒリズムとは、「命に固有性なんてなくて取り替え可能であり(トイストーリー!)、死んだらクローンがいるし、AIに移し替えればいいし、平行世界から別の自分を持ってくればいいんじゃね?(無限の取り換え可能性)」というようなニヒリズムであるように思える。その点では『ワンダヴィジョン』を僕は重視する。
フェーズ4には、愛する人の死を追悼し哀悼する、という主題がある。その中でも、『ワンダヴィジョン』がとりわけ不気味なのは、「愛する他者は死んでも何らかの形で生き返ってしまうのでは?」「死者を蘇らせることすらもまた現代の正義の責任なのでは?!」(ベンヤミンが言う全ての死者の復活という神の正義がテクノロジーによって実現してしまうとしたら?)という復活可能性を永遠に除去できないことにある。そういう形での反転した哀悼不可能性(アンティゴネー的主題)――死者は公共化されえないが無限に社会化され資本化されてしまう――は、様々な人間を巻き込んで、不気味な政治的問題を形成してしまう。では、来るべき哀悼的正義とは何か?(全ての人々からヒーローであることを忘れられた『スパイダーマン3』のピーター・パーカーを哀悼するとは?『インフィニティウォー』の指パッチン=「理不尽な進化」の後の世界を生きるとは?)
@skono ヒーローの老いゆく身体、障害をもった身体のはなし、楽しみです!