なんてえのかなあ。
あの美術批評家のおとっつぁんとその息子たち一家は、不能感無能感からしょうがなくするしかない、ある種の欠落者が出さざるを得なかった表現に対して、同じ目の高さで見つめることなんてしないしできないんじゃないかと思う。見ること受け止めることに痛みを伴う表現の、その痛みを感じる痛覚がないのではなかろうか。
それでも表現や批評は成立するんだろうけど、痛いんだってねえとナイフとフォークで豪奢な食事頬張りながら宣うパトロンみたいな立ち位置でしかもの見てねえんだろうな、とルサンチマンな僕は思うわけであります。