「推し」「陰謀論」がそういった宗教性を軸に分析的な切り口で提示されている時に、なんというかそれ自体に対する"共同幻想性"を強く覚えます。
たぶん「陰謀論」の方がそれが分かりやすいのですが、よくSNSで見る「陰謀論者」「ネトウヨ」「フェミニスト」的な言葉は、実際にそれに該当するのような当事者意識を含めても、ある種のネットミーム化が側面として際立っている感触があります。
いわば「陰謀論者」という概念を我々は集団的共有をしていて、その虚像は実像よりも存在感を放ってしまっている状態。それって、むしろ構造としては誰よりも陰謀論信者っぽい。
「陰謀論者w」って認識で画面の向こうと対話しちゃってる。本当は陰謀論者じゃないかもしれないのに。暇潰しで陰謀論を撒き散らしてる小学生かもしれないのに。
どちらも
いわゆる「信者」的なものの体型理解と、
そしてそれに対するやんわりとした距離的確保(自分は「信者ではない」といううっすらとした表明)
みたいなものを含めて全体像として概念化しているような気がします。
陰謀論者は「陰謀論w」を含み
推し活は「アンチ的な感覚」を含み
そういった二律背反性を常に発生させながら成り立っている概念。
このマッチポンプ的な仕組みは、個人の自我範囲というこんなに狭い領域で稼働させるには、いささか心拍数が高すぎるような気がします。
カリスマという存在はかつてのように簡単には生まれにくくなっているのかもしれません。
もしくは、小さいカリスマがめちゃくちゃいろんな所で数えきれない程生まれているのかもしれません。
個人的には、時間経過と共にそれらは揺り戻しもありながら変化してゆくのだと思っているのですが、そうであるのならばその時「宗教」という概念はどういうポジションになっているのでしょうか?
宗教は科学と元は同じ領域のものです。
神の存在を鼻で笑いながらも、宇宙の存在を疑っていない人は多いと思います。