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「推し」や「陰謀論」的な概念の宗教性

が社会学的に批評として語られているのをよく目にするのですが、

これは"「宗教」という概念の個別化、民営化"

の話だと感じています。

「推し」「陰謀論」がそういった宗教性を軸に分析的な切り口で提示されている時に、なんというかそれ自体に対する"共同幻想性"を強く覚えます。

たぶん「陰謀論」の方がそれが分かりやすいのですが、よくSNSで見る「陰謀論者」「ネトウヨ」「フェミニスト」的な言葉は、実際にそれに該当するのような当事者意識を含めても、ある種のネットミーム化が側面として際立っている感触があります。

いわば「陰謀論者」という概念を我々は集団的共有をしていて、その虚像は実像よりも存在感を放ってしまっている状態。それって、むしろ構造としては誰よりも陰謀論信者っぽい。

「陰謀論者w」って認識で画面の向こうと対話しちゃってる。本当は陰謀論者じゃないかもしれないのに。暇潰しで陰謀論を撒き散らしてる小学生かもしれないのに。

「推し」という言葉もそうで
こちらはもう少し概念として俯瞰的主観が強いので若干ややこしいと思うのですが、これは要は"「推し活」的なものの肯定"を指している共有言語なのだと思います。

"推し(活)"を推している

という認識。

それを「ファン」という概念でのみ捉えるのなら、そういった人々や感情は昔からあったわけで。この言葉が台頭してきた理由は、ファン心理、ファン行為の内面化、前提化によってムーブメントを生んでいるからだと感じます。

先程の「陰謀論者w」的な共同幻想に当てはめるなら、推し活への疑問(推し活を推さない)を提示する事自体が構造的に「盲目的なファン」を虚像として作り上げている事になる、という感じでしょうか。

推し活へのアンチ

みたいな不思議な日本語が生まれてしまうかのような、これもまた漠然としたイメージの産物。
熱狂的ファンと呼ばれるようなシンボリックアイコンはメディアを通すと存在の面白さで波及しやすいのだと思いますが、本人たちの本当の心理は確認しようがありません。めちゃくちゃ冷めてるからこそ、目立った行動が出来るという可能性もあります。
自覚的なファンはモノマネ芸人的な自我に近くなってゆくのだと感じます。分離してるからこそ伝染によって情報流動は発生します。

どちらも
いわゆる「信者」的なものの体型理解と、

そしてそれに対するやんわりとした距離的確保(自分は「信者ではない」といううっすらとした表明)

みたいなものを含めて全体像として概念化しているような気がします。

陰謀論者は「陰謀論w」を含み
推し活は「アンチ的な感覚」を含み

そういった二律背反性を常に発生させながら成り立っている概念。
このマッチポンプ的な仕組みは、個人の自我範囲というこんなに狭い領域で稼働させるには、いささか心拍数が高すぎるような気がします。

カリスマという存在はかつてのように簡単には生まれにくくなっているのかもしれません。
もしくは、小さいカリスマがめちゃくちゃいろんな所で数えきれない程生まれているのかもしれません。

個人的には、時間経過と共にそれらは揺り戻しもありながら変化してゆくのだと思っているのですが、そうであるのならばその時「宗教」という概念はどういうポジションになっているのでしょうか?

宗教は科学と元は同じ領域のものです。
神の存在を鼻で笑いながらも、宇宙の存在を疑っていない人は多いと思います。

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