太田さんがよく口にしている
「映画を撮りたい」
「シャボン玉ホリデーのようやコント番組がやりたい」
という目標としての物語性があった上で、
ただ同時に今のファン層やテレビ視聴者、慕っている若手芸人、スタッフとかが、あまりその太田さんの願望を認識把握できていなそうな雰囲気も覚えます。
個人的には、
僕は爆笑問題のコントの方が好きだったりします。
特に初期の頃のネタの「進路相談」や「人工心臓」とかのブラックな感じが好きだし、タイタンライブの原型的な「七福神」でのユニットコントも好きで、あと「爆笑大問題」「爆笑問題のハッピータイム」とかもよく見ていました。
そして、30周年記念ライブ
「O2-T1(オーツーティーワン)」も面白かったです。
ですが、正直なところを言えば「O2-T1」に関しては客層と内容が合ってないんじゃないか、というか漫才師としての爆笑問題、テレビタレントとしての爆笑問題、とコント師としての爆笑問題、日芸出身の映画や演劇活動コンビとしての爆笑問題とが、かなりイメージとして分離している事の表面化を感じました。
ある種の過剰適応とも呼べる進化があったのかもしれません。特に太田さんが。
その上で、
テレビの話というYouTubeは「ワンシチュエーションコメディ」という形式を取っていて、これはどちらかと言えばテレビタレントの方の爆笑問題でのイメージを前提に番組を組み立てているのだと思います。
ただ、それが"コントである必要性"を上記したような視聴者、ゲスト若手芸人が慣れも含めてあまり感じ取れていない気がします。
端的に言えば、
テレビタレントのイメージを持ち込むのなら、トークチャンネルでいいじゃん と思われている感じがする。
端から見ると、
"よくわからない拘り"に感じられているのかもしれません。
ただ、爆笑問題のコント好きからすると、
むしろ"そういう芸人"だという認識だし、なんならコントに拘っているけど内容はまだまだ全然トークに寄せちゃってる、と思う。
ただのいちファンが勝手な事を書くのなら、
「矢作とアイクの英会話」とか
「永野コントチャンネル」とか
「九月劇場」とかみたいな
コントはコント動画として上げて、
トーク的なパートは別で設ける
という棲み分けて見たい気もします。
コントとトークの境界領域が曖昧になってる。
スケジュール的にそうならざるを得ないのかもしれません。
もしくは、それが段々味になって良さになってくる感じもします。
バナナマンおぎやはぎの「epoch TV square」
劇団ひとりバカリズム東京03「ウレロ☆未確認少女」シリーズ
とかと
ワンシチュエーションコメディという形式上比較して見てしまう部分もあります。
脚本構成がある程度しっかりしてて、その上で少量のアドリブを見せたりしてゆくような水準を無意識に求めてしまうのかもしれません。
もしくは、そもそもそういう事ではなくて
「ヨルタモリ」的な領域を意図しているとも感じます。
だとするのならば、やはり個別でコントとトークをある程度分けて放流してほしい気持ちになったりもします。(光代社長がちょっとそうなってる)
YouTube的なアルゴリズムによって芋づる式に視聴してゆくプラットホームでのコンテンツ形式にあんまりなってない感触。
週一での深夜テレビ放送でサムネイルやうっすらとした話題の方向性だけYouTubeっぽくなってる、というような状態なのかな。
田中さんの安定感はコント芸人のそれとして健在してると思う。
そういう意味では、太田光という芸人さんは、中田敦彦の松本人志への提言の話題の時に
「あっちゃんは"権威"に憧れがあるんじゃない?そんなものはお笑いに邪魔」(と言いながら微妙に松本人志の立場への批評にもなっている)
と言っていましたが、これは皮肉ではなく太田さんもある種の"権威憧れ"が見えかくれしているとは感じます。
"反権威"憧れ
とでも呼べるような逆説的価値高騰ポジション。
それは当然「道化」という立場なわけですが、太田さんの特異性はそれを"語り"によって構造解体をし、そのドサクサ紛れで自身をその特別地点に置いてしまう、という芸を獲得しているところ(田中さんという"疑似権威"を担保に)
そこに
「語れるけど、いざ取り掛かるとその構造解体芸を越えない」
という自己矛盾を抱えたまま、だけどもそれも自虐や批評を含んだまま"語ってしまう"事でお笑いとして成立される、というメタ演技によって聖域を維持してきたのだと感じます。
煙に巻くのが上手すぎるし、
ある意味での天然性を愛嬌として飼い慣らしている
チャップリンが街の灯での盲目の少女の残酷さや、独裁者でのヒトラーの滑稽さと愛着を描いてしまっていたように、
太田光の表現は、"芸人憧れ"という部分が一番魅力を放ってる。