ゴッドタンのマジギライ「ウエストランド井口」回を見ました。面白かったです。
と同時に、嫌っている側のメンバーがほとんど井口さんと関係性の近い芸人さんばかりだったのが気になりました。
これは、この企画が長きに渡ってて回を重ねるごとにそういった人選へ移り変わってきた傾向があるとは思うのですが、今回井口さんが最初に言及していた通り、"女性タレントが一人しか居なかった"という状態は初めてだったと思います。
ここである程度ベターな視座を言うのであれば、やはり近年のコンプライアンス的な角度から、女性へ悪口を吐いてゆく構造が前提の企画(それがバラエティ番組内で芸人が弄られてのカウンター発言だとしても)に対しての炎上リスクへの防御策…とかだとも捉えられますが、
もう少し細かく捉えようとしてみると、
"この席に井口さんが座る"とこまで来たという、バラエティ番組に置ける加虐性が一周した事も意味しているのではないかと、個人的に感じています。
ロンハーの格付けとかも、似たような要素があって互換性が高いと思います。
あれもまた、初期は「格付けしあう女たち」として、女性タレント同士がお互いを品評しあうようにトークを交錯させて、その瞬間に滲み出るような人間性を司会のロンドンブーツが弄ってゆきながら組み立ててゆく"露悪リアクションショー"が源流だったと思います。
ふと零れる言葉の刺やギスギスした空気、人間関係の中でのリアルマウント、打破されてゆくヒエラルキー、そういったものを傍観的に面白がっていた企画構造だったと。
ただ、それは歴史を重ねてゆく中で「格付けしあう男たち」「格付けしあう若手芸人たち」「格付けしあう売れっ子芸人たち」という感じの変遷を辿ってゆき、その過程で非常に"バラエティプロレス"的なニュアンスが磐石になっていったと感じています。リアルファイトじゃなくなった。
いろいろな理由があると思います。上記したようなコンプライアンス意識、ロンハーという番組自体の立ち位置、ロンブーの年齢やキャラ変化、主要タレントの潮流、明石家さんまが恋のから騒ぎを終わった時に「バブルの頃の女性はぶっ飛んでて面白かった」という理由を語ってたのも何かが関係してそうな気がします。
端的に言えばトレンドは変わったと思います。
そして、マジギライ5/1ですが
こちらは最初期はたしか小木さんが嫌われ側の席に座っていたと思います。
なんというかイメージなのですが、ゴッドタンって実験的な企画の時プレーンなアクターとしてまず小木さんを設定してみる事が多い気がします。(仲直りフレンドパークとか、喧嘩の途中に踊り出すやつとか、マジ歌にベッキーが出たやつとか)
そのあとはアンガールズ田中さん、フットボールアワー後藤さん、アンジャッシュ児嶋さん、南海キャンディーズ山里さん、と続いていってて
なんか漠然とした印象なのですが、
「受け身」の上手い人達のショーだった記憶があります。
キモ芸とかダサ芸みたいなものを自分から打ち出しているタイプのいじられ芸人さん達が、女性タレントにいつもよりエグめに"自分のダメなところ"を弄られて、その時の本気の凹みを隠しながらいつものようにリアクションを取れのるか、的な文脈の追い込みが仕掛けとして組まれていたと思う。
(その中で偶発的にキャバ嬢あいなさんが発見されて、めちゃくちゃ芸人批評的なキャラに成ってゆく、という中期での分岐要素があったとも思います)
途中、永野さんのライブを
「信者に向けてやってる」とツッコミを入れていましたが、その縮尺と規模を変えたものを基本的に井口さんも行っているのだとは思います。
(オリラジ中田さんのテレビ批判芸とかもこういう仮想敵対)
これらから感じ取れるのは、井口さん批判ではもちろんなく、ましてやゴッドタンやバラエティ番組のマンネリ化への憂いですらなく、
冒頭に述べた、"加虐性"の一周
我々、視聴者、観客が、なにをサディスティックな潜在意識として求めているのかが変容したんじゃないかなと、ぼんやり感じています。
個人VS構造
みたいなものに共感や侮蔑を注ぐ快楽割合が高かった。今までは。
集団VS俯瞰
みたいな領域に暴力性や宗教っぽさとかも含まれながら昇華してる気持ちよさが出来上がりつつある気がします。最近は。
河本さんの流れブった切りすら、井口さんの統制の中に鮮やかに組み込まれてゆく様子に安心感すら覚えてしまいます。
井口さんがマジギライをハックしたのか、
マジギライが井口さんに乗っ取られたがっていたのか、
最後ビンタされずに終わってしまった事が、一番のダメージになっているかのような、そんな複雑な表情の井口さんを見て、鈍痛のようなエグられを擬似的に感じながら笑ってしまいました…