霜降り明星粗品さんが良くも悪くも語られる時に、「才能」という言葉が用いられがちだと思いますが
その「才能」がどういった類いのものなのか
あまり把握されていない気がします。
それは視聴者側も芸人側も。
漠然と「才能」がある、と認識されていて、それによって発言や振る舞いが許されているところがあるんだ、もしくはその「才能」によって若くして売れたから天狗的な環境と葛藤が生じているんだ、というような状態に思われがちなんじゃないかなと感じます。
個人的には、それが微妙に違うんじゃないかなと感じています。
ざっくりと言えば
粗品さんの「才能」は、そういう発言や振る舞いを行う事が芸人的なキャラ演技の中に含まれている代物なのだと思う。
「才能キャラ」なんだと思う。
なぜそう感じるのかと説明してみると、
粗品さんのネタやボケ方に、
ある種の「テンプレ」性を覚えてしまうからです。「型」とも呼べる。
非常に言語解説が難しいのですが、
粗品さん、もとい霜降り明星のお笑い芸人としての革新性はデータベース前提でのサンプリング大喜利的な漫才の文脈上でのシステム構築を成しているタイプだと感じていて、端的に言えばその「新しさ」の種類が「型版」の更新に比重の高さを覚えるのです。
くりぃむしちゅーの例えツッコミや、
東京ホテイソンの溜めツッコミ漫才的なものの、上方漫才側の到達点なんだと思う。
なので、大喜利の答えの「新しさ」と言いますか。
なんか
"「この範囲までも」「この概念までも」お笑いとして解釈しちゃうんだ"的なイノベーションではないんじゃないかと感じます。
ダウンタウンの漫才「クイズ」での
「さて、なんでしょう?」みたいな曖昧領域をそのまま提示する面白さとかではないし、
ツービートが「毒舌漫才」と称されたような、犯罪者とかまでも含めたあらゆる対象をネタ化させるアプローチ自体の面白さでもないし、
オードリーの「ズレ漫才」というツッコミの破綻をボケとしそこを機転に掛け合ってゆきそれによって際立った歪な存在「春日」を幻想として作るコンセプチュアルな面白さとかでもない。
なおかつ、その上で粗品さんはそれを「舞台監督」的なフォームで出力してゆく。
これも常々感じているのですが、粗品さんは漫才師として「外側」からツッコミを入れているんです。せいやさんという運動的なキャラクターのボケに対してその都度その都度、規定的にツッコんで視座を提示し笑いに変えてゆく。これはとても"演出的"だと思います。
自身が出ている側でありながら、せいやさんという中心的存在にスポットライトを当てる役割によって場を成立させてゆきます。なので、ちょっと構造部分に食い込んでいる。"演じきり"的な才能でありながら、外部に隣接していて参加者を募っている。観客ごとうっすら演じさせるような支配性が役割の中に組み込まれている。
これは、
ウッチャンナンチャンの南原さんや、
くりぃむしちゅー有田さん、
浅草キッドの水道橋博士さんとかと似た気質だと思います。
自身が型の模倣を芸としているので、観衆の盛り上がり含めて意識的な演じきりの促し傾向があるのだと思います。
これが毒舌的な文脈と絡んだ時に、内圧からの攻撃性を物理的に生んでしまうのだと思います。(それが魅力でもある。香取慎吾の両津勘吉に「キショかったわアレ…」って言っちゃうやつとか。外部の雰囲気をあんまり把握してない天然から来るものだと踏まえてても面白い)
個人的にはTHE SECONDへの腐し大喜利とかもその文脈で面白かったと感じているのですが、構造的には、最上もがさんがUberEatsへの炎上ツイートをした時のような、背景への想像不足(というか、その上でそれを無視するというボケ)が世代的なものを含めて表出しやすいタイプなのだと感じます。
その発言や振る舞いが垂れ流される瞬間は土台の天然性が要因なのだけど、それも含めて「どう思われても構わない」というスタンスの演じきり(なので、本当にどう思っているかは別。そういう振る舞いが出てくる理由は他にあるのだと、勝手に感じています)
それも含めて粗品さんの才能だし魅力なのだと感じています。
騒ぐほどの事でもないっちゃないと思いますし。
南ちゃんが狂言、有田さんがプロレス、博士さんが政治、だったように、粗品さんが芸人的な場所以外で"演じきり"を発散出来るような地点があるとまた変わってくるのかもしれません(ギャンブルは演じきりではない)。
粗品さんにとって、毒を吐いたというより、そういうツッコミをした、という認識なだけだと思います。