佐久間宣行さんは
「いじられる裏方」として表に出てきてる。
芸人側が、つい、いじってしまうんだとも思います。
冗談半分、本気半分で、批判的に語られる瞬間も多々あると思うのですが、それ自体が「佐久間宣行」という概念の強化に繋がっちゃってる。
アルピーのラジオでいじられる事で、佐久間さんは演者化していった現象があったと思うのですが、
それより前に、佐久間さんが観衆の前に晒されてた瞬間もあって、朧気な記憶ですがたしか、
谷桃子企画だったと思う。
谷桃子さんという、若干バラエティの空気を読むスキルが足りなかったタイプの演者を、司会とスタッフが強烈に弄ってゆく流れの中で、それ自体がモンスター化し、破滅的なキャラクターになっていった事そのものを面白がるという企画。水曜日のダウンタウンと、安田大サーカスクロちゃん、みたいな関係性のもっと精神的にハードバージョンといった感じ。
で、その中で被害者として佐久間さんは、自身を映像の中に登場させていました。
谷桃子さんの破滅的な振る舞いに、巻き込まれるスタッフ、として。
この入れ子構造の変態性が佐久間さんの面白さだと思います。だって、よく考えたら自分が企画者側なのに。
言葉を選ばず言うのなら
マスターベーション的かつマゾヒスティックな面白さ。
しかも、それが環境設定を伴っている。
この面白さのまんま
ゴットタンの外側に侵食させていった結果が、オールナイトニッポン0パーソナリティに就任している現状なのだと思います。
ずっと一応、被害者のてい。
批判される事込みで。
佐久間さんの面白さの根幹部分は
「『自分で自分をいじっている』
という状態の、『俺』を見ろ」
みたいな、欲求によって形を成しているものだと感じます。
その営み自体は、
"一人(自己内省)" で成立する代物なのだけど
それを"見てもらう他者"が必要ではある。
ただ、その他者を形式や構造で、ある程度自ら意識的に作り出しちゃったり、他者をコントロールしようとしちゃってたりしている(実際、それが予期せぬ反応やプレイ環境に繋がったとしても、関係はない。その外圧自体が自己内省への刺激に繋がってゆくだけだから)
という面白さなのだと感じています。
「キス我慢」も「マジ歌」も「あちこちオードリー」も「トークサバイバー」も「ナミダメ」も、全部自己内省の発露へ向かう環境設定が、基本的な骨組み。
「ママチャリ王選手権」も、他のマニアックさと比べると、身近かつ自家発電的な面白さだなぁ…とも感じます。要は、ずっと縛りプレイ的。
なので
「いじられる裏方」として演者化
してるけど
同時に
「佐久間をどう弄るか」という企画を
芸人や採用するスタッフに強いてる
というプロデューサー的な仕事の延長線上の状態でもある。
これって、今までも居るには居て
「コラムニスト」という肩書きでコメンテーターの仕事をし、そのままバラエティの司会業に軸足を移していったマツコ・デラックスとか
「掲示板の有名コテハン」から、自分で運営をし始めて、その領域で、ネットの人として名を上げたのちに、そのスタンスのままオールドメディアに出ていった元2ちゃんねる管理人ひろゆきとか
と基本的には一緒の「裏方」のタレント化ではあるのですが、佐久間さんの場合は、その横断幕がかなり薄い、元々が舞台袖に近距離のポジションだったから、そもそも「タレント」的な磁場が強い立ち位置なので、その変換も含めて自己コントロール感が高い数値なのだと思います。
なので個人的に
佐久間さんを「芸人」だと思って見ています。
「芸人じゃないフリ」のレベルがめちゃくちゃ高い「芸人」だと思って見ると、その面白さの濃度がしびれる程に凝縮してきます。実は、やってる内容的に炎上とかとも結構、隣合わせでスリリングな芸風だと思う。
他のどの有名バラエティプロデューサーとも違ってて面白いです。
で、それ自体が佐久間さんの嗜好と魅力に直結してるとも言いますか、
簡単に言えば
「変態」的な面白さ、となってる。
ゴッドタンというバラエティ番組の仕組みがそうなのですが、芸人さんの追い込み方が、かなり内省に迫ってて、その意識を汲み取った上で、周辺環境を整えてゆく、という企画の組み立てを行ってるんです。
それって、
「イメクラ」っぽい。
品の無い例えなのですが、わかりやすいと思うので、そのまま話を進めてみると、ゴッドタン的なお笑いのあり方は、風俗店における「疑似恋愛」的な骨組みをしていると感じてまして、
とゆーか、実際問題として、メディアを媒介した産業は、全部、共同幻想的な代物であることは免れなく、特にエンタメの中でもバラエティは「おもしろい嘘」である事が前提で楽しまれているのは言わずもがな、
それを踏まえた上で、ゴッドタンは
「『コント師』が行う『即興トーク』」
に特に比重がある企画構造なのだと思うんです。
なので、それって「~てい」が強いし「あえて」も強いから、裏笑い的になる。それを状態化させる運動がある。
「『形式』によって際立つ『エロス』」
みたいな構造に極めて近い。