沖縄市出身の連れは「小さい島だから近いところで揉めたくない」傾向なんだと言い、同時に連れの中には「沖縄はヤマトより劣っているから」という内面化がある。
「ヤマトの寄生虫みたいなもんだし」とまで言った(厳密には“言わせた”だと認識している)時のことは忘れられない。咄嗟に言葉が出なかったし、絶句するとはああいうことなんだと思う。

まる9年経った付き合いの中で、音楽の教科書の『君が代』の欄には紙が貼られた状態で受け取っていたこと、小中学校と学校行事の「国歌斉唱」の時間は誰も立たずメロディを聞くだけの時間だったこと、そうした沖縄県の教育現場の中でも、「本土並み」をよしとして「同化」に積極的だったと思われる先生もいたことを知った。

望まずにそのようにアイデンティティが引き裂かれたり、悩んだり、踏みつけられたり、攻撃的になることで身を守らざるを得ないとか、そういう揺らぎが自分にも全くないとは言わない。
近年名前を受け取ったクワ(クォイ)ロマンティックだとか、少なくとも中学生の時にはバイセクシュアルだった自覚とか(今はオムニなのかな~と思っている)、それでクィアの友達と二丁目に遊びに行っても「所詮バイはコウモリ」と揶揄されたこととか、やっぱり所在なさや心の中の棘としては残っている。

それでもエスニックマイノリティとして、生まれ育った場所や民族性で揺らがされることは私はない。おそらく今後もない。その特権性よ。

和人が和人のために気持ちよくなれるような記者もアーティストも映画も全部うんざりだ。私でもそうなのだ、「通じない」と思うし、「うるさくて面倒くさい奴って思われてるんだろうなー……」と感じるのだ。
それが琉球、沖縄県ルーツのクィアならどれほどのことか、どれほどの怒りと呪いと苦しみを伴うだろうか。ずっと溺れさせられているようなものなんじゃないのか。そうさせているのは自分たち和人が元凶である。

琉球、沖縄県ルーツの「複雑さ」は本当に途方もない。連れの弁を借りれば、ひとつの「小さな島」が、そこまでの複雑さを抱え、ずっと振り回され揺らがされ、尊厳を削られていることの不平等性を、和人が消費や利用や美化せずに言い続けることについて何度でも考えている。

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これ、ものすごいだめな文章書いてて、“ひとつの「小さな島」”って言い方だと、「沖縄本島」以外の島々を周縁化してしまっている。
文脈としては「本島」出身の連れの話をしているにせよ、“ひとつ”なんてまとめてしまってはいけないし、せめて「小さな島々」と言うべきだった。

日頃なるべく「沖縄」と言わずに「沖縄県」と言うようにしているのは「本島」以外の諸島も含めているという意味だからだのに、こんな言い方をしてはいけなかった。のに、してしまった。反省いたします。

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