「それ自体で思考の内密性の内で働いていたパロールの内部に、エクリチュールの可能性が住み着いていた」(VM, 97)。孤独な心的生活における「自分が語るのを聴く」としての現在化のプロセスが時間の内で必然的に差異と遅れを伴い、絶えず「隠喩」と化すこと、これが「差延」であり、したがってそれは自己の特権化どころかむしろその批判である。隠喩や痕跡から遡及することによってしか起源的な自己を立てることは出来ない。「起源的であることを痕跡から思考しなければならないのであって、その逆ではない。…意味の時間化は最初から空間化である」(VM, 101)。これが意味のイデア的な現前を絶えず脅かす「死」の構造として捉えられる。「差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に死んでいる」(VM, 120)。