この記事の本文中には「自己肯定感」という言葉は出てこないんだけど、タイトルは『子ども食堂「自分肯定の場所に」』となっていて、オエッと思ったんだけど、この自己肯定感というのも最初の頭木氏の記事に通づるものだなあと思う。
「自分がいても良い」と子どもが思える場所、という言葉がこの記事を書いた人には「自己肯定の場所に」に変換されたんだろう。
収入の高低と自己肯定感の高低は連動しないと大人なら分かるだろうって思うのに、こういう事が起きてしまう。
「自分がいても良い」って子ども(個人)が思えないとしたら、それは子どもの自己肯定感が低いからではなくて、大人が「誰もがいても良い」という社会を作れていないことが問題なのに、子ども(個人)の自己肯定感にすり替えられる。
そして、そういう物語を望む人たちは多いんだろうなあというのも冒頭の記事と共通。
ちょっと前に「ネガティブ・ケイパビリティ」が結構流行ったのにどこ読んでたんだろうな。
で、この辺は今読んでる「認知資本主義」の「コーチング」の章とも繋がってくるのでニドネ国から帰ってきたらまた書きます。
https://nordot.app/1076098348949553509?c=39550187727945729