ハーヴェイ・ワインスタインに実刑判決。
大物だから、高齢だからと有耶無耶にしない。司法が生きている。
(しかし、サラッとしか書かれていないがそれだけでも被告側弁護団の反論がひどくて、被害者の皆さんは裁判中も何度踏みにじられたか想像がつかない…)
相手が死のうが、有罪になろうが、被害者の人生はそれからも続くので、性犯罪には厳しくあるべきだし、被害にあった皆さんがこれから良き日々を送れるよう、遠くから祈りたい。
reuters.com/world/us/ex-produc

この判例が出来たことで一度に全ては無理だろうけど、ハリウッドや米芸能界も変わっていくんだろうなあ、 以降だいぶ変化はあっただろうし。

それに比べて本邦は…と、何ごとについても思うけど、昨今の映画ランキング上位がほぼアニメで占められているのを見ると「人間を使わなければセクハラやパワハラにならないんじゃない?」という方向へ舵を切りそうな気がしないでもない。

もちろん、アニメにしたところで声優へのセクハラやパワハラ、制作スタッフ内でのセクハラやパワハラ、業界全体に蔓延る低賃金という問題はある。

ここで唐突な思い出話 

凄い個人的なことなんだけど、たまに思い出すことがあって、若い頃、家族でやってる小さなお店でバイトしていた時に、お孫さんが小学校が終わると真っ直ぐ店に帰って来て、そこから遊びに行ったり、店で宿題したりして終業後みんなで一緒に帰るという感じで、そのお孫さんと仲良くなってみんな(祖父母、親や叔父叔母)が忙しい時に一緒に遊びに行ったり、授業参観に行ったりと(子どもがいないからおもろい体験だった)、家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっていた。

で、ある日、叔母の一人にこの日店休むんだけど一日孫と遊びに行ってくれないか、と言われて、「?」と思ったら、曾祖父さんが亡くなって葬儀があるとのこと。「え?お葬式に連れて行かないんですか??」と思わず聞いたら、「あんな小さい子供に死体を見せられないでしょ!」と言われて、「えーっ!」ってなって(言った)、ということがあった。

結局、家族間でその後話し合って祖父母と叔父叔母が出席して、その親子自体は行かないというモヤる解決をしたんだけど、「葬儀=死体を見る」という発想が今も残っていて、それは極端な例だけど日本の「不浄を隠す文化」の成れの果てでもあるのかなあと、折に触れて思い出す。

何で今回思い出したかと言うと、映画のことを考えていて(日本では実写よりアニメが盛んであること)、「人間だと生々しいからアニメで」という需要があるのかなあと考えたり。

新海誠作品とか特にそう思うんだけど、アニメである必要がむしろ無い話ばかりで、最新作に至っては震災とその慰霊と鎮魂という内容を実写で描けない日本の映画業界の限界を感じたけど、作る方(配給する方)はそれを限界ではなく可能性に感じているんじゃないかなあとか。
辛い現実や災害などを実写ではなく可愛らしいアニメで神話的なファンタジー含みだったら見れる需要と儲かるものしか予算配分できない(したくない)貧しさのベストマッチというか。(新海ファンにはごめんなさい)

こういうことも「不浄を隠す文化」に繋がっている気がするんだよね。

不浄を隠す文化といえば、ゼネコンで働いていた時、地鎮祭の会場設営をしていて、女性はこの紅白幕からあっちには入れないので、君はここで受付とクロークをと業務を割り振られて、「へーっ!」って思ったんだけど、巫女さんは処女じゃないといけない、と同じやつか!って気付いて。「股から血を流す女は不浄だから神事に入ってはいけないってやつですか?」って聞いたら、やはりそういうことで。(現在は女性の施主や施工主もいるので神事に入ってはいけない、とかやっていられなくなり消えつつある。)

なんつうか、死や女を不浄とすることと、その不浄を隠すこと、悪事の隠蔽をすること、気持ちに蓋をすること…それらは繋がっていて、今の政官財あげての現実逃避社会を作っているんじゃないのかな、とか考え始めて止まらない朝。

ハーヴェイ・ワインスタインの判決から話は飛んだけど、司法って全てを明らかにする場であるから、そこに精神性(スピ的なもの)は入り込む余地は無いはずなんだけど、彼我の裁判を見てるとそんな飛躍した話でもないのかな、と思う。

あ、女をって雑に言っちゃったけど「股から血を流す体を持つ人」のことです。

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って、書いたけど、股から血を流す人だけでなく女(全ての)を不浄で下等とする文化というか眼差しはあるよな…
改めて思ったのは男根主義と密接に絡む家父長制度のほうがよっぽどスピってるよな。

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