→西井さんのD論発表、視聴中。

男性の場合、しんどくなったら、<期待のストーリー>を妄想し始める。

それが現実に叶わないと、周囲を見下すことで、孤立していく。

そして、場合によっては、暴力に走ったり、セルフネグレクトに向かったりする。

← これが、男性ならでは、の傾向なのかな…。『ワーニャ伯父さん』、ソーニャは、<期待のストーリー>を抱かないもんね…。→

→ ふーむ…。

先ほどの、男性が陥りがちな隘路を、非モテ研=男性同士の共同的な実践によって超える。

そして、そこで編み上げられたのは、「包括的男性性」である、と名指している。インクルーシブ・マスキュリニティ。いつしか、視野狭窄になっていた、男、を開く。複雑さを取り入れて、飲み込んでいける。言葉で象って、対象化して。インクルーシブな男性性が、作られたんだ、と。

なるほどー…。→

→そして、D論研究の途上で、研究者としての西井さんの当事者性分析が入ってくる。

非モテ研の仲間や、他の男性を、他者化していたのではないか…。

非モテ研の仲間の批判の言葉も経て、研究者/臨床家/当事者としての立場を行ったり来たりし、西井さん自身も揺らぎ、自己を再編していく、という経験をした…。

最終的に、西井さんは自身を、「触媒」である、と名指している…。

…うーむ、ここ、突っ込まれそうな気もする…。→

→非モテ研、男性同士の集まりの後。その外に出て、どう性差別に介入するのか。→

→信田さんコメント。

信田さんの立場。

2000年代の前半から加害者臨床、性犯罪者の実践に関わってきた立場。援助者性。

どの立場でここにいるのか?という問いかけ。専門家、例えばカウンセリングをする立場で、なぜここにいるのか?という問いかけ。それをずっとしてきた立場。信田さんは、医者ではない。ではなぜ、いまこの臨床の場にいるのか。なぜ、カウンセリングを受ける立場ではないのか。なぜ向こうではなく、ここにいるのか。そう問いかけ続けた立場。当事者性。

この二つの立場で、コメントを行う。→

→「不安定な男性性」について。この言葉に、衝撃を受ける人も多いのでは。「男とは…」「男って…」、この言葉は、男が固定的なイメージとして捉えられている場合が多い。

なので、固定的ではなく、不安定、と言われて、びっくりするのでは。

こうした見方が前景化してきたのは、時代的な背景があるのでは。

そして、非モテ研が、自助グループ・当事者研究を背景にしている、それで、この不安定な男性性という状況が抽出された、と知って、なるほどな、と思った。→

→ホワイトのナラティブ・セラピー論は、元々、自分の立場性を問うもの。それが換骨奪胎されて日本に紹介された経緯あり。西井さんの研究は、このホワイトの元の大事なところを取り戻したもの。

博多の事件。彼の凄惨な成育歴。周縁化され、メインの男性性から遠く離れ。暴力団的なところに属し、アルコールと暴力が有効な手段。そこから生まれる「一発逆転」。西井さんのD論で説明されている「一発逆転」と、相通ずる点がある。

彼らの困難さをすくい上げるものは何か。ひとつはAC。ACブームは重要だったが、2000代に入って、さらに、何が起きているのか。親との関係だけでなく、ジェンダー的な視点、男としての生きづらさに焦点が当たるようになったのでは。だから、「非モテ」という言葉に注目した点に、意味があったのでは。→

→西井さんの研究は、伊藤さん、中村さんらのメンズリブの歴史の中から出てきた。これは、とても大きい。メンズリブの歴史。

男性性の複数性、交差性の視点は、まだまだ日本で共有されてない。単に男と言い表せないぐらい、様々な要素、交差的な権力性の問題がある。アメリカ心理学会のガイドラインにも、このことは書かれていて。これは、日本でも早く取り入れた方が良い。

暴力性、という定義は粗雑。危険。

いっぽうで、個人化・心理化の危険性もあり、それも避けなければ。

(…「暴力性」という定義が粗雑、というのは、これまでフェミニズムで、非暴力を重要なタームで取り扱ってきた点があり、論争的かもなあ…)→

→第8章。ここまで男性研究者が書く、というところに感動。自分がなぜこの研究テーマを選んだのか、それをきちんと説明し、発表すること。それは当然のことなのかもだが、しかし研究、そして臨床の世界では、まだまだ例外的。エセ中立的な立場が、臨床の中立性を担保する、という言説が、まだまだ横行。

西井さんのD論は、そこを突き抜けた。やまださんに来てもらって、その点を話す部分がD論にあり、そこは、非常に感動的だった。

仲間たちは、いきなり研究の俎上に上げられ、ショックだった。その言葉を聞き、西井さんもショックを受け、変わっていった。そこが、白眉。

研究としても、臨床としても、非常に重要なところ。臨床で言えば、お金をもらっている以上、自分のことを話さないようにしている。

かつて、臨床の場で、自分の立場を話すことを大切にしていた時期もあった。信田さんは過去、それがいやだった。自分を売り物にしない、というつもりでやってきた。今まで一貫してやってきた。

また文筆で、ひとりを取り上げるのではなく、まとめて書く、というようなことをやってきた。

そうしたことを、再考させられた。西井さんのD論を読んで。→

→プロであるとは何か。信田さんは女性。女性だから、当事者性を感じていた。

西井さんの場合は、クローズドな場で、仲間となり、それで当事者性が生じていた。

応答の姿勢。研究の責任としての、応答責任。それが、第8章には見られた。

読み終わって、希望を感じたD論だった。男性が不安定である、ということは、流動的である。そして、触媒、包括的男性性という言葉が、創造性につながる、と感じた。不安定=創造性。それは豊かさである、と。リラベリング。ポジティブコモデーション。

カナダやイギリスでも、自助グループ的なものが増えている。非モテ研と共通している動きだと思う。

アンラーン、教えこむより、セルフヘルプ的なことをすることで、非暴力の効果があるのでは。→

→心理臨床の世界で、ジェンダーの、ジェ、ぐらいは言えるようになった。まだまだ周回遅れだが、どこまでニーズに応じられるかで、心理臨床の評価も下っていくだろう。

非モテのグループはどう広がっていく? それがD論の最後に書いている。信田さんの経験、出会ってきたクライアント、グループからの声・苦情を聞いてきた立場からすると…。大事なのはスピリチュアリティ。個人を超えるもの。宗教性が大事になる、ということを感じている。それでも、グループの意味はなくならない。批判されずに語れることの重要性、非常に求められている。そして、國分さんのいう、類的他者。この概念をもう少し追うと良いのでは。また、良いグループをいかに持続するか、そこも今後の論点では。→

→上野さんのコメント。西井さんのD論は面白く、信田さんのコメントも面白かった。

質問。分野は、臨床心理学? その分野の方法として、臨床社会学を採用、と書かれているが、臨床心理学では、これはどのように受け取られる? 私は面白いと思うが、学位論文としては?

当事者研究は、学会で、これからどんな位置を占めるか。凄い可能性があると思うが、エセ中立性、心理学では非常に強い論点。今回のD論は、揺らぎと自己言及があり、これは学会としてどう評価される?

当事者のカテゴリーが現場から生まれる。非常に魅力的な概念(一発逆転、女神化)が出てくるが、すでに学問(女性学、男性学)の言葉(有害な男性性等)と関連され吸収されつくすのか、はみ出していくのか。はみ出していくということは、先行研究の蓄積性へ還元されるとしたら、これまでの概念が有効だったということになるが…。今回は、何が発見されたの? 明示的に、先行研究との新規性を示せ。→

→西井さんの返答。

一つ目。博論からやや外れるが、かつて、心理学で出したら評価が低く、社会学で出したら赤で水での評価があったことがあった。おそらく、臨床心理学では、自分のD論は受け入れられない実感はある。なので、自身としては、社会学より、ただ、心理学と社会学とを往還するイメージあり。どこが引き取ってくれるか。

上野さん、返事。社会学が入ると、どの分野でも二流と思われる傾向が。

西井さんの返答続き二つ目。どう評価されるかは、まだ全然わからない。一番気になるのは臨床心理学の中。自分を透明化するような臨床家の中で、どう捉えられるか。

三つ目。実践をやってる中で二つのことが言える。まず、還元しつくせない。特に女神化。これは女性学におけるミソジニーと符合するところはあるが、微妙に違う。そうなってくると、非モテ研の参加者の中でも、ミソジニーが何だか馴染まない…ということがある。うまく説明しつくせないのだが、当事者が腹に落とせない、クライアント、グループの参加者が腹に落ちるかどうかが重要なポイントだと思い、そうじゃないなら深い理解にならない。そうした言葉を探る。→

→ミソジニーは、女性学発。被害者たちが言葉にしてくれたが、やはり、男性から、どう言葉にするか。そういうことも必要だと思う。

当事者から出てくる言葉が全てだとも思っていない。当事者研究が行き過ぎると反知性主義に。当事者がいうことが全て正しいわけではない。信田さんがいうプロ的な視点も重要。自己正当化の言葉があふれる危険性もあり、専門的・学術的立場から、これはこういうことなのでは?、家父長制等の言葉を提供することが、男性たちが自己理解を深めるうえで重要であると思う。→

→上野さんコメント。ギデンスもバトラー、理論家も、腹に落ちる言葉を使ってるとも思う。結局、その言葉を、みんなのものに。

信田さんコメント。女神化、WANの中で検討しては?

上野さんコメント。上野さん、でも、女神と言われる側は、迷惑。他者の視点で言われるものを、相対的な観点から概念を鍛えていく必要が。

信田さん、ミソジニーという言葉が鍛えられると思う。→

→カワモトさん、質問。スピリチュアリティが今後重要、という信田さんのコメントあり。カワモトさん、キリスト教に関わってきた過去あり。非モテ研は宗教的な要素がない、と思っていた。12ステップは、布教の一環として行われていた経緯が。一方で、スピリチュアリティって、どんどん難しくなっている現状もあると感じたが。スピリチュアリティ、どう考えるか。

信田さん返答。私自身が、スピリチュアリティが必要だと思ってるわけではないが、結果的にグループに生まれるものだろう、と思っていった。医療の無力。自助グループの力。そこには、AAのスピリチュアリティ、スピリチュアルな成長が大きかった。自助グループとスピリチュアリティは不可分。非モテ研も、プチ、スピリチュアリティが必要なのでは、と思った。その場合のスピとは何を指すのか。三角形。傷のなめ合いと違うところに、スピリチュアリティがある。ハイアーパワー。グループの一体性、させるものがないと、自助グループは果てしない分裂、対立が。スピがあるかどうかが生命かと思っている。→

→西井さんコメント。非モテ研も12ステップを取り入れたが、深く検討したわけではなく、換骨奪胎してしまったのでは、という疑念も。ただ、三角形、お互いを見つめる、という感じがなく、第三項を見つめているからこそ、緩やかな関係が立ち上がっている感じがある。非モテ研の場合、ホワイトボード笑。書いて、それを見る、という体験が、なんか楽しい。楽しいだけでなく、妙な盛り上がりが出てくることが。非モテ研出ると疲れる、という話も出るが、誰かの語りと自分の語りが部分的に重なるときがあり、そのときの興奮感は平時とは違う感じがある。その面白さがあるから、加害、しんどいことの話しを、自分が取り組めるぐらいの大きさで、ちょっと軽くして扱える、そんな効果がある。

上野さんコメント。スピリチュアリティに警戒。西井教、信田教にならない? ただ、ホワイトボードを挙げたのは面白かった。技術論。集合表象(デュルケム)。こうしたもので、いかにカリスマの存在を防ぐか。

西井さんコメント。いま現在進行形。ぼくが名前が売れすぎ。非モテ研に新たに来た人が、「あなたが西井さんですか…」と。このままではカルト。どう脱するか。次の課題。→

→ということで、WANの西井さんD論発表会終了。面白かったー…。

学術上の概念と、当事者初の概念、その突き合わせが必要で。同じなのか、違うのか。違うとしたら、どう違うのか。その新規性を明確に示す必要がある、と。

なんか、できれば、その概念の突き合わせ、検討も、みんなでやれたら、ステキだなあって思った。

ぼくも、自分の研究で、そういうことできるかなあ…。非常に刺激になりました。臨床家、というか、ぼくは教師という現場もあるからなあ。他人事のように受け取ってはいられないなあ…。

とにかく面白かった~! WANのみなさまに、感謝、感謝です…!

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実況ありがとうございました!
また改めて、西井先生の著書と論文読んでみようと思います。上野先生は「いい迷惑」と仰っていましたが、非モテ研に出てくるワードや発見って、ホモソーシャルに順応することで生きてきた女性(自分がそうなんですが)が自分の中に内面化させてしまったねじれたミソジニーを解体するのにとても必要だと思ったのですよね。
自分をフェミニストと名乗れないけど、生きづらさを感じるという人はいっぱいいると思うので、そのへんの架橋ができればなと思いました。

こちらこそ、コメントありがとうございます!

非モテ研に出てくるワードや発見が、「ホモソーシャルに順応することで生きてきた女性が自分の中に内面化させてしまったねじれたミソジニーを解体するのにとても必要」、とのこと、興味深く感じました。

ぼくも、自身の感覚を振り返る、良い機会になっています。西井さんのお仕事も、サトマキさんの呟きも、ありがたい刺激です。引き続き、よろしくお願いします!

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