「行き過ぎた/過激な反差別」だとレッテルを貼られフォローを外された事がある。フォローなどはどうでもいいが問題は「行き過ぎ」「過激」と判断した基準は一体何なのか、だ。
トランス差別やあらゆる差別に反対する同じ志を持ちながら、沖縄差別を民族差別と位置づけ、沖縄戦より歴史を遡らなければ見えない差別を訴える人を過激と一蹴するその傲慢さよ。
性差別解消を願う人の中には天皇制に疑問を抱かない人もいる。
そんな人たちにとっては女性天皇が誕生すれば「平等」達成であり、天皇制批判は「行き過ぎ」なわけだ。
自分が今いるポイントよりももっと後ろで差別されている人がいることを知らない。自分を最弱マイノリティ設定することで自身の持つ加害性は見なくてすみ被害者のままでいられ、小さな声を矮小化しぞんざいに扱う様はまるで今まで共に批判してきたマジョリティと同じじゃないか。
沖縄戦を忘れるな、辺野古反対、そういったヤマトリベラルが琉球侵略/
併合に一切触れず、民族差別を訴える人々に民族主義だと「過激」レッテルを貼る理由はそこである。
彼ら/彼女らは「救世主」にはなりたいが加害者にはなりたくないのだ。
加害者にならないためには沖縄戦からの歴史だけで「沖縄差別」を語らなくてはいけない。