全体主義のもうひとつの側面は、社会への一体感を抱けるとともに、それに参加することによって社会の役に立っているという生きがいや高揚感を感じられることです。
これは、全体主義渦中にあったドイツ、日本の一般庶民の証言のなかに多く出てきます。
はじめて世界は意味を持ち、生き生きとして感じられた。あんなに楽しかったことはない。
これは、おそらくそれまでの社会で不遇を感じてきた人ほどそうであったでしょう。
民主主義を守れ、といっても、その民主主義社会のよさを実感できていない層には、まったく響かない、と思います。
「全体主義」というと、対外的戦争につながるからよくない、と思われがちですが、戦争は全体主義の一形態に過ぎず、その本質は、次々と打ち破るべき敵を措定し、それらを殲滅しながら、集団の一体感を醸成、高揚を保つということです。
それとともに、既存の社会システムを破壊していくのですが、かと言って代わりの社会システムを構築するわけではありません。
したがって、全体主義の行き着くところは、既存の社会システムを食い尽くした挙句の破綻しかない、というところが、全体主義が強く警戒されるところになります。
対外的戦争は必ずしも全体主義に必要とされるわけではない、というのは、中国における文化革命、スターリン下のソ連を見れば明らかで、国内における思想統制と「異端者」の排除の形態もとりえます。
当時は、共産主義と民主主義のイデオロギー闘争の時代だったことを反映して、イデオロギーが理由となりましたが、現在では、性をめぐる規範がもっともありうることで、トランスジェンダーはまさにその象徴になっているのだと思います。
トランスジェンダーという存在を「殲滅」するのは、物理的な破壊は必ずしも必要とせず、「存在しない」と社会的に規定することによって完成しうるものです。
しかし、全体主義はその性質上、次なる殲滅すべき敵を必ず必要としますので、その次は、また別の属性が殲滅対象となります。それは、LGBTQが考えられますが、フェミニストかもしれない、高齢者かもしれない、貧困者かもしれない、あるいは富裕層かもしれない、誰が選ばれるかはその時々の時流によります。