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処理水を「Fukushima water」と呼称する問題の記事で、水俣病についても触れてあります。水俣病でも、地名を使うことのイメージ悪化問題はずっと語られてきてはいますが、「風評」というひとつの側面からは判断できない繊細な問題であると思います。

地名を消した場合に、負の事象と地名が結びつけられることはなくなるかもしれませんが、それは、直接的にそのまま「忘却」と抱き合わせにもなります。

「忘却」は、忘れても平気でいられる人にしか起きません。つまり、向き合わざるを得ない人たち、影響を受け続ける人たちだけを、そのまま取り残してしまうという危険性も孕みます。

仮に水俣病が「メチル水銀中毒症」としてだけ呼称されていたら、これだけ長期に社会的に記憶される動きとなったかといわれると、ならなかった気がします。

地名が使われることは、記憶として定着させることも意味し、それは正と負の双方の側面があるので、片方だけではなく、両方の側面を汲んで考える必要があります。

「Fukushima water」問題、共同通信が3度目の発信。福島県は国に情報提供、県議から指摘も
huffingtonpost.jp/entry/story_

福島のフルーツが、ロンドンのハロッズで売られているという記事が出ていたと、欧州の友人が送ってくれたのですが、そこでも、「福島の桃」と見出しになっていました。(好意的な記事です。)

ここで「福島」が見出しとして出されて意味が通じ、かつ、人々の目を引くのは「あの原子力事故のあった福島」という記憶があるからです。

そのイメージがなければ、「日本から送られてきたおいしい桃」だけでは、なんの情報価値もないことになります。

そこに含意されるものはさまざまでしょうが、放射能汚染の問題があったからこそ、福島の復興を応援するというムーブメントも生まれるわけで、負の情報を福島から切り離せば、正の情報の方も印象度が薄くなり、忘れ去られていくだけだ、ということは念頭に置いておいてもいいように思います。

「風評だ」といわれると、それだけで顔面蒼白になってあわてて口をつぐむ雰囲気があるのですが、そのことによって、忘却が急速に進み、後になって(おそらく10年か20年か先ですが)、福島の関係者が後悔することになるのではないか、と思っています。

結局、環境省が積極的に推奨している「風評加害」という言葉を使うことも、福島について話すと怖い人たちに糾弾されてめんどうくさいことになるから、触らないでおこう、という雰囲気を日本社会にもたらしているだけだと私は思っています。

語られないことは忘却されていくというのは、自然の摂理です。

環境省にしてみれば、なかったことにしたいので、あえてそうしているのかもしれませんが、それで最終的に困るのは、福島の被災者になるのだと思います。

要するに、「風評加害」という言葉をプロモーションすることによって、福島について語ることを妨害し、いまから、福島の被災者を孤立させ、水俣病の未認定患者さんたちのように窮状に追い込む段取りを整えているということでしょうか。
(そこまで意識化しているとは思いませんが、直感的には理解しているかもしれません)

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