思うに各人に移動性、流動性が担保されてこそ、分散型の良さが出るのではと思います。それが風通しの良さになって、お互いのバランス感覚の自動的な調整になる。

多人数における対話の手法で、オープンスペーステクノロジーというのに参加したことがあります。熱意を持ってしゃべりたいことがある人が手を挙げ、そこに関心のある人たちが向かいますが、面白くなかったらすぐ移動することができるので、場に余計な圧がたまりせん。

 

真夜中に 時間は息を 吹き返し

最初から肯定的なことばは否定性や強迫を内在している。肯定的なものは、否定の否定として現れる。

子どもというのは自己完結に閉じた意識的主体であるよりもまだ「場」そのものなのだなと思う。影響に開かれている。

また、「場」そのものだということは、子どもに「重要なこと」をインストールすればそれでいいと高を括ることはできず、常に子どもの周りの「場」、家族や社会環境に対して責任をもたなければいけないということにもなる。

昔、子どもたちと演劇を作っている西田豊子さんのお話を聞いたことがあった。ある人の表現が生まれるために必要な条件は、安心・安全・信頼・尊厳だと言われていた。

信頼まであっても、尊厳を提供しなければ、その人の表現が生まれてくるのは難しいのだと思った。

確かに「信頼」があると勝手に思って他人にずかずか入りこむ人も少なくない。尊厳が不在の「安心・安全・信頼」は弛緩していて腐りやすそうだ。

自分周りの社会環境では、既に出来上がった「上」や全体に尽くす「美しい」従属性は誉めそやされるが、「尊厳」といった概念は共有されておらず、実質不在だとも思った。

既成の支配的階層由来のものでもなければ、徹底的に屈辱的な評価をされる土壌があり、そういう階層でない人の表現や作品は、まず自嘲や低俗さの自認を前置きしなければ出てこれないように思えた。

表現は固まってしまったもの、とどまったものを更新していこうとする生きた身体性の自律的な衝動であり、働きの現れだ。

植物の種は条件が整わなければ動き出さないまま死ぬ。種に頑張れとエールを送るのではなく、既にある環境条件を整える必要がある。

それぞれの尊厳が守られる場所で、「時間」は動きだし、人と環境がともに更新されていく。

文化というのは、そもそも出来上がったものに従うことではなく、そのまま放っておいてもウンザリなことがまた繰り返されるだけの環境に対して、「そうではない」反逆の小宇宙をこの世界に現前させようとする営みだろう。

Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。