昔、子どもたちと演劇を作っている西田豊子さんのお話を聞いたことがあった。ある人の表現が生まれるために必要な条件は、安心・安全・信頼・尊厳だと言われていた。
信頼まであっても、尊厳を提供しなければ、その人の表現が生まれてくるのは難しいのだと思った。
確かに「信頼」があると勝手に思って他人にずかずか入りこむ人も少なくない。尊厳が不在の「安心・安全・信頼」は弛緩していて腐りやすそうだ。
自分周りの社会環境では、既に出来上がった「上」や全体に尽くす「美しい」従属性は誉めそやされるが、「尊厳」といった概念は共有されておらず、実質不在だとも思った。
既成の支配的階層由来のものでもなければ、徹底的に屈辱的な評価をされる土壌があり、そういう階層でない人の表現や作品は、まず自嘲や低俗さの自認を前置きしなければ出てこれないように思えた。
表現は固まってしまったもの、とどまったものを更新していこうとする生きた身体性の自律的な衝動であり、働きの現れだ。
植物の種は条件が整わなければ動き出さないまま死ぬ。種に頑張れとエールを送るのではなく、既にある環境条件を整える必要がある。
それぞれの尊厳が守られる場所で、「時間」は動きだし、人と環境がともに更新されていく。