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@promenade11 その二つは言うほど対立してないと思いますよ。呉智英は90年代の雑誌ダヴィンチがエンタメ小説と漫画を総合してバイヤーズガイドを組み立てていく中で起用されたライターだという面もあり、ダヴィンチの作った流れこそがこのマンや本屋大賞の流れの前哨戦だ、という整理が可能なので。このマンはむしろ90年代末の河出のJコミック特集〜ユリイカの漫画特集〜文藝別冊の漫画号〜現在の小学館の漫画読本とあんまり差異化できてない。

@ttt_cellule お返事ありがとうございます!呉さんってダヴィンチが起用した経緯があったの知りませんでした。ダヴィンチ以降の広告路線も90年代からのマンガ本の流れもおっしゃるとおりだと思います。わたしの先の整理は「このマンガを読め!」と「すごい」の対照を意識してて、多分に個人的感想になるのですが、前者には「我々が文化(としてのマンガ)を教えよう」という古い(?)権威主義を感じてしまうんですよね……。ユリイカなどのマンガ評論なら全然面白く読めるんですが

@promenade11 いやー、むしろ呉と夏目というのは80−90年代において先行世代知識人の漫画語りを権威主義的だとして叩きのめした側なんですよ。たとえば寺山修司や天沢退二郎らが70年代ぐらいにおこなったのを批判して払い除ける仕草があった。その対抗として漫画文化全体を考えるような面が強い。呉と夏目が古く見えるのは語ってる作品と評価基準が90年代までが限界で、そのあとはついていけてないためですね。90年代まではむしろがんばって追いついてる方です。いしかわはコラムニスト的に振る舞ったのでエピソード語りがメインかな。
つまり、これは世代の差で共感対象じゃなくなるサイクルが起きる典型で、各世代が「年長世代はわれわれのこだわってる作品がわからない」と各世代ごとに殿堂入り作品を選ぶんだけど、リテラシーが世代ごとにぶつ切れが起きる、そしてその世代も20年経てば「こんな古臭い作品しらね」と嘲笑される流れになる。とにかくこればっかり起きるんですよ

@promenade11 夏目いしかわ呉の漫画クライテリアが古びた、90年代までの現役性しかない、というところでまずは区切ればいいんだと思いますよ。
なので、80-90年代のヤング誌面創刊(ヤングマガジン、ヤングジャンプ、ヤングサンデー、フィールヤングなどなど)やモーニング創刊とかの流れまでのスター作家への着目まではフレッシュ、しかしアフタヌーン作家やガンガン系の出現やその後への感度がない、という感じになる。初期伊藤剛が執拗にあずまきよひこやガンスリを論じたのは00年代状況を論じて知見更新を図る狙いなので、この対比で理解できる。

@promenade11 伊藤はその後10年代前半〜中盤ぐらいには現役感が薄れたけれど、その後の若手〜中堅で、通史記述と10年代漫画情勢を語るプレイヤーが現れれば、議論のつながりや参照文化の変容などを跡付けることも可能だったんでしょうけど、いまは漫画関係の人材は研究に吸い取られていて、現状に介入する構えがあんまりなくなってる…という感じ。

@ttt_cellule ありがとうございます!たしかにただの世代格差の話なのかも知れません。BSマンガ夜話の語りが、『テヅカ・イズ・デッド』で世代交代した感はわかります(どちらかというと動ポモの衝撃が大きかったのが個人的印象ですが)。というとわたしのモヤモヤは、「10年代以降の漫画情勢を語るプレイヤー」が不在であるせい、つまりいまここにあるマンガを誰か語ってくれーってことなのかもしれないと整理できました。単にわたしがそうした最新のマンガ評論をキャッチアップできてないだけだと思いますが……(個人的関心はpixivやTwitter、web雑誌のコメント欄、Amazonレビューなどなどのネット構造がマンガをどう変えているのか、なんですがこのあたりって素敵な論考などあったりするんでしょうか?(不躾ついでの質問ですみません

@promenade11 知るかぎり無いので、「ええ〜雑誌秩序を知ってて、その後のメディア状況にも適応した世代として自分が何かやらないといけないの〜?」と半ばドン引きしつつ、ここまで漫画論にコミットするつもりがなかったのに、知見を精緻化しているのが私ですわよ・・・

@promenade11 Twitter&pixivは、新人漫画家にとっては漫画の広報をする場所って面がありますね。ある時期から定番化した。あわよくば媒体に引き取られて連載化を狙う、という枠。これはもう「話題になったTwitter&pixiv漫画とその目録」でだいたい輪郭がまとまると思ってて、まあ片手間に蓄積してるリストはありますね。

なお、Twitter以前のウェブ漫画はある意味滅びましたね。作品も残ってない。ONEとか天原、クール教信者、横田卓馬(女性作家の方はよく知らない)などの一握りの成功者が出る過程の「消えた媒介」みたいなものになった。

このマンと本屋大賞の前にはこのミスがあり、このミスとダヴィンチの出現が完全に下敷きだ、と最近掴めてきた。エンタメ小説や漫画を横並びで把握する、00年代以降の秩序はダヴィンチがやってた。

@promenade11 ダヴィンチの頃のイシューで滅びたのは「漫画vs文学」といった評価軸かな。その途中で関口夏央がかつて影響力を持っていたことも忘却された(昔は谷口ジローと言えば関口の保守性と結びついた作品だった)。

Amazonレビューは追ってないなあ。ウェブ雑誌のコメント欄、ニコ動コメント欄も同じ枠でしょうけど、これらは基準作品とそのコメント情報を全部分析するぐらいにしないと、まとまった検証をしようがないんじゃないかな。あとは、「コメで〜って見て、他の作品を知った」といった逸話でまとめるぐらいしか手がなさそう。

@promenade11 ざくっと逸話や体験談を語るのはできるが、まとまった総体を語る手続きが難しい、という難点があるのでソーシャルメディア以後の掴みづらさがあって、そこで「データでやれまーす」と自称する変な雑語りマンがイキリ散らす、という二極化が起きやすいっすね

@ttt_cellule 素人感覚でアレなんですが、マンガの楽しみ方が作者と読者の一対一ではなくなってるところの分析がほしくて、例えばちいかわみたいに国民的に開かれた受容もあれば、fanboxみたいな閉じた輪もあって、それらはかつての「友達とマンガ雑誌を回し読みする」のとは全然違う体験だと感じてるんですよね。それに合わせて作品のつくりも変わってきてますし。

@promenade11 あーなるほど。SNSを介したコミュニティ消費だってことですね。いや、私は逆で、昔は雑誌がコミュニティごとの消費だったんですよ。でも現代の若い人だと昔の雑誌がコミュニティっぽい相互参照の場だというのがもはや掴めないんだろうなと。30歳以下でわかる人が激減する感触を持ってますね。

つまり、異なる形のコミュニティごとの受容があるんだけど、それらを比較したり可視化の差異を見るような議論が、不思議なくらいに欠けているところがある。

@ttt_cellule なるほど、色々整理できました!コンテンツを楽しむコミュニティが「雑誌」というはっきりした枠からネットの多様で雑多な関係へと拡散しているせいで、ひとつの文化を総体として語り難くなっていて、だから語り手不在になるわけですね。でも、いまやwebでマンガを読む体験はコメ欄やSNSと不可分ですし、作品単体でなくそういうネットの雑多なコミュニティ消費も含む総体として語ってくれるひとがほしいな〜という気持ちがやっぱり強いですね……(呉といしかわが「読め!」でやってた時事放談がモヤるのは、まさにそのへん無視して唯「雑誌」主義だったからだと気づきました

@promenade11 昔は漫画に限らず雑誌って「この雑誌読むやつは〜が好きで、〜な格好をしてて」みたいな部族ステレオタイプを自他ともに強固に構築して、そのステレオタイプ像の了解とともに相互にいがみ合ったり牽制したり、あるいは両方を摂取していたり、ということが常態で、そういう部族特性の掌握と部族の移動というものも、カルチャー受容者ならある程度自覚的だったんですよ。これは陣営ごとの揶揄やカリカチュアが豊富だったことと表裏一体のリテラシーでもあるんですが。音楽や映画などの雑誌間の棲み分け、睨み合いがわかりやすいかも。
で、これは漫画雑誌の場合は、サンデーとジャンプとマガジンはどう違うかとか、花とゆめやASUKAは…とか、角川はさらに落ちるとか(これは00年代後期ごろに覆った)、少年誌と青年誌の識別とか、青年誌とヤング誌の識別とか、まあ上下や横で細かく比較があって、「他紙で受けた路線を持ってきたぞ、さて別の味を出せるかどうか」といったジャッジが比較的共有されていた。まあ映画だとスタジオ、音楽だとレーベルみたいな秩序ですね。で、オンライン掲載になって、それらの類推の網の目が、無にはならないにせよ、変容したのと、読者はもうそういう読解格子を持たずに作品という点しか見てないような状況が急速に進みましたね

@promenade11 そうなると、オンラインの現状では作品を土壌にして個々に成り立つコミュニティになるので、昔の雑誌秩序での媒体やジャンルに根差した総合コミュニティとはまたちょっと違ってくる感じですね。企業別組合と産業別組合ぐらいの規模感の違い。
オタクファンダムが相対的に強いのは、要はジャンルを一定のまとまりで合意する参照枠として(恣意的であっても)便利だから、という面がありそう。

@ttt_cellule それって今後は、少なくともマンガについて、「文化全体を考える」語りは成立しそうにないってことなんですかね。わたし自身は妙なトライブ主義が苦手で(おれはマガジン派だぜ、みたいな)、そうした秩序の上にこそ「文化を総体として語る」特権的なプレイヤーが存在しえたとするなら、そういうある種の階級構造がコミュニティのネットへの拡散によって瓦解した、という分かりやすい構図に飛びつきがちで、それはそれで居心地がいいのですが

@promenade11 あーこんな特集あったのね。まあ雑誌フリースタイル自体が「団塊ジュニアの90年代意識のまま時間を止めた」ようなダメさがあるんだよね(私はすぐにそれに気づいて呆れ返ったが、もう一周してタイムマシンみたいな雑誌って生きた時代資料として褒めるべきか?すごいのか?と思いつつある…)。

webfreestyle.com/products/フリース

@promenade11 いや、トライブは内面化しなくていいんですよ。10代の頃なら内面化しちゃうのはまあよくあるんですが、私はもうジョブツリーとスキルセットと同じ把握です。このカルチャーコードで、この味付けで、こういう武器が出てくる、みたいな。チャンピオンのヤンキー漫画とジャンプのヤンキー漫画は味付けが違うとか、読者の好みも違う(市場)、とかそういう形態的な処理をしますね。造形とかコスチュームと一緒w

@promenade11 トライブが火花をちらしながら、トライブ全体の布置が徐々に時代ごとに変形していくライフゲームのような総体はありますよ。でも「こんな記述は恣意的。ただのお前の主観」と一撃で腐されるのを回避できる語り方が思い浮かばないんですよね…。トライブや形態を没入可能な描き方をしないだけで不審感をもって読まれるのは避けがたそうだし。
滔々と確信を持って語って迫力でごまかせばいいのか?と悩んだり…

@promenade11 昔の論者も今の読者も、たいていは誰しも特定のトライブに「ここに可能性がある」と判定して拠点を構築するから、今も昔も総体を語ってる人はそんなに多くないと思うよ。呉智英はあからさまに女性のマンガをあんまり読んでないもの。
今も昔も精度そんなに高くないですね。支持する読者層がいるかいないか、過去になったかなってないか、ぐらいなのでは。
児童誌マンガをめちゃ掘って比較検討してる人は今も昔もあんまりいない…

@ttt_cellule 今も昔も総体を語ってるひとは少ないといわれるとそうかも知れませんね……。河出のJコミック特集とかはまだしも文化的な位置づけをやろうとしてた感じがあって、当時はかっこいい!とか思ったんですが、あれは文学経由の権威づけみたいなところが味になってただけなのかな

@promenade11 河出のJコミックはヤング誌のスター作家を集めまくったやつです。文学とあんまり関係ないかも。
いまはヤング誌看板からのテレビドラマ化やドラマ化しないけどさらにセンスを尖らせるコースとかがもう消えつつあるから、あのオーラの後釜作家がいないようなところがあるんですよ。ヤマシタトモコや中村明日美子とかが今だと近い枠かな。

@ttt_cellule あのころの「J文学」のマッピングと同じようにマトリクスで作家を整理するのがなんかかっこよかったんですよね。ダヴィンチのカタログとは違うものを感じるというか。本質は同じなのかもですが。とにかくわたしの場合、なにか権威的なひとが「楽しみ方」を評したり、大きな文化史として好きな作家が位置づけられたりすることに、かつては憧れがあったんですが、その後そういうスタンスにすっかり嫌気がさして、とか思ううちにそういう風に権威をもってマンガを語るってことをそもそも最近みないなーって

@promenade11 Jコミックの件で今付け加えると、「オタクカルチャーを分離させた選別」になってるのはありますね。このへんの頑なさは、岡崎京子から安野モヨコに覇権が移る途中で解消されていく。
ここに沙村広明とか黒田硫黄、弐瓶勉、内藤泰弘あたりが入ってると「うまくオタクっぽいのを混ぜた」になるかも。漫画家とイラストレーターの90年代資料では『コミッカーズ』(ちょい前の『MdN』今では『イラストノート』が近い枠の雑誌)が重要なんですが、それはオタク方面の書き手がかなり多い。

@promenade11 マンガvs文学、サブカルvsオタク、といった対立争点が全部蒸発したのが大きいと思う。>権威的語りがなくなった

@ttt_cellule そうそう、まさにそのへんの構造崩壊とリンクしてますよね。なんかお話ししててわかってきたんですが、わたしの個人的な関心は、個々の作品評よりも、コンテンツをとりまく状況についての分析になんですね

@ttt_cellule 素人的に乱暴にいえばweb2.0以降の価値観の多様化と情報へのアクセスの容易さが、ディレッタント的な権威をぶっこわしてくれて、風通しがよくなったんだろうなと

@ttt_cellule そしたらあまりにみんな自由でバラバラ過ぎて、ふと、あれ、だれかこの自由すぎる状況を俯瞰して、テキストに残しておいてくれません? となります

@promenade11 いまはいまでトライブやコミュニティがあるんですよ。それを語る言葉があんまり開発されないし浸透しないだけで。というのは、下手に名指すと敵視されてフルボッコ食らうから。

@promenade11 それは、可視的にはコメントや考察、愛着表明があり、不可視なものにはコミュニティごとの境界線などがあるんですが、もっと不可視で透明化されているのは、コミュニティごとの掟であって、掟を違反するといじめられるから、安全安心の確保のために掟の問題は盲点化しがちなんですよ。リスク抱えてもいいことないから。
これは昔の雑誌的文化トライブよりも水面下に潜って見えなくなった分、脱出も難しくなったし支配が巧妙化した面もある

@ttt_cellule あああそれはきっとそうですね。単にわたしは深いところにいってないからいまのところ避けられてるだけで

@ttt_cellule マンガ文化というより、文化人類学的な研究アプローチのほうがいいのかしら? でもまあどうしたって波風たちますね……

@promenade11 フィールドワーク的な語彙でファンダムを内部から把握して行こうとする人は近年わりと増えてそうですよ。女性オタクの場合、そうでもしないとコミュニティ規範の圧をうまく言語化できないといった話をたまに耳にしますね

@ttt_cellule そうなんですね!なるほどですが、研究するのが大変そうすぎますね……。どんな研究結果になるかに関心もありますが、VRChatを「フィールドワーク」してる研究者のテキストとか読んでも「???」みたいなことが多く、どこまで実態をとらえてるのかも分かりませんし……難しそう

@promenade11 実際には研究論文として出力するというよりは、フィールドワークの知を摂取しつつ、我流で秩序把握を進めていくんじゃないかなあ

@promenade11 たとえばこの記事とかは、何の知も摂取せずにやってるので、全部造語とたとえで説明が進むような微妙さがあるんだけど、こういうのをもっと記述を絞ったり議論の射程を広げるようにできる、とかがありるのでは・・・
note.com/swim_think/n/n3c855c6

@ttt_cellule ありがとうございます!ちょっと面白かったです。俯瞰して語るのでなくコミュニティの内側から語るというのは、ネットカルチャーと相性良さそうですね。この方向で論考を書くのは至難な気もしますが、体験談ベースの話芸としてなら色々面白いことできそうですし、そういうテキストはそれでとても意義がありそう!(すみません、そろそろ人間生活に向かいます。お付き合いいただきありがとうございました😭

@promenade11 昔のコミュニティを権威的、いまのオンラインコミュニティを平等、とみなすと、エロゲ批評空間とかゲーム攻略wikiの持ってる秩序の歪みとかが「愛好者のバイアスで持って透明化・盲目化し続ける」といった局面がわからなくなってしまうので、このへん大事なんですよ〜(念のため強調)

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@ttt_cellule 面白いです。あれは陰謀論なので、わたしが求めている宗教的救済という要素はほとんどないのですが、単純にドストエフスキー『地下室の手記』的などうにもならない自意識が楽しいです

@promenade11 が、面白い論考はないかもですね。派手な滅びた組織のルポとか、常識的な範囲でのエスノグラフィーが多いだろうし。逆に、明治維新を「成り上がり者たちが勝って、妾をたくさん作った邪悪な世界」とするのも手かも。伊藤博文などはその意味では明らかにやばいので。明治初期の連中の江戸幕府潰した自負はやばいですよ

@ttt_cellule ありがとうございます。たしかに、そうした歴史的な組織づくりを参考にするのも面白いかもですね。個々人というより、人間がなにを動機に、どのようにして、新しい組織(コミュニティ)を形成していくのか、そしてどう失敗するのか(勉強することいっぱいだー

@promenade11 討幕から明治初期って家父長制と性差別体制を明確に作る意思があるのでやばいんですよ。何かの本で読んだ記憶がありますが、ミソジニーに満ちた勝利宣言みたいなのがあったりする。

@promenade11 まあ求められているのは片言隻語ではなくスターターキットになる素材でしょうから、私の方でも何か見つかったらお伝えします。

ところでFACTがこの前完結していたようなので斜め読みして把握しましたが、FACTはわりと山本直樹リローデッドですね。といっても、山本は『ありがとう』と『僕らはみんな生きている』の2作だけ読めばいいところがあるんですが、以降の作品でもずっと「オルタナティブな場所を作る/に行く、がその場所は崩壊する/弾き出される」のモチーフをやっているところがあって、魚豊は山本の構造をいじり直して作ったように見えました。調整がうまい。

@ttt_cellule 『ありがとう』読んだの大昔なので、第一話と、娘の不登校の切実さを試すために自傷を強いるシーンしか憶えてないんですが(笑、山本直樹って「オトナ」だなって印象があります。オルタナティブな場を目指すってコドモの感性じゃないですか。だからオトナの視点でそれを描くと、登場人物は必ず挫折しますよね(現実の苦さを知る)。魚豊は『チ。』と『FACT』しか読んでませんが、たしかにオルタナティブへのロマンを冷静に突き放して書くところは山本直樹のオトナ視点と近いのかもですね。魚豊のほうがまだ幾分かオルタナティブへのロマンを持ってる気配がありますけど

@ttt_cellule オルタナティブへの憧れを描くなら、ティム・バートンとかテリー・ギリアムみたいに、完全にコドモ視点でオトナの世界をひっくり返してくれるやつが好きだったんですよね。ハッピーエンドしろアンハッピーエンドにしろ。最近はそこまでこだわらなくなってきましたが

@promenade11 ええ~挫折上等だと、成熟こそが正義の保守史観になるのでは

@ttt_cellule オルタナティブ指向をもつ主人公と現実との衝突結果が「挫折」だった場合、それは「オトナになれ」な成熟論にも、現実の残酷さへの告発(=理想郷信仰の堅持)にもなると思います。どちらとも解釈できるケースが大半なんですが、挫折によって主人公の「オルタナ指向」がどれくらい変化したか? がひとつの指標になりますね…(わたしのなかで)

@ttt_cellule ひとつの極が、カッコーの巣の上でとか未来世紀ブラジルみたいな「挫折」=「主人公の崩壊」になるケースで、現実に叩きのめされても主人公のオルタナ指向の変化はゼロという判定になるので、理想郷信仰は完全に保たれてます。個人的にもっとも美しい「挫折」!あとは、このオルタナ指向の変化が大きいほど成熟論に傾いていくという雑な理解でして、「それでもどこか遠くを目指し続けるしかないぜ…」みたいに指向が多少なりとも保持されるケースもあれば、「あの頃は私も若かった」みたいなオルタナ指向消滅ケースもある(=成熟こそ正義)。後者はだいたい小賢しいノスタルジックな演出が入る印象で、あれはオルタナ指向を裏切った罪悪感を消す麻酔薬だと思ってますね……

@promenade11 着地点をどう価値づけるかが焦点になるんだろうね。あとはこれって典型的にビルドゥングスロマンの形式だなと・・・

@ttt_cellule ですねー。ああ、物語を言語化しようとするとすぐ構造の話になってしまう……

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