特定の思想や思想家を論じるにあたってリスペクトが必要かというと必ずしもそうとは言えないと思うけれど、肯定するにせよ否定にするにせよある思想を論じるためには深い理解と洞察が必要で、リスペクトや偏愛はそれらを可能にする必要条件ではあると言えると思う。ほら、優れた研究者ほど研究対象にセルフ・アイデンティファイするって言うでしょう。自己同一化は対象化、相対化の前にどうしても避けられないプロセスなんだろうと思います。リスペクトはこの人にこれだけの情熱を傾けますよという(理解の足掛かりとしての、)いわば掛け金のようなものですね。...ざっくりと書いたけど、理解ー同一化ー分離ー対象化についてはもうちょっときちんと精緻に語る必要があるかもしれない。