ある俳人がこんなことを言っていた。
私は優しいから名前は伏せてあげるけど……
こういうことを言えるのは、原発の被害に現に遭っておらず、これからも遭わない安全圏だから。
安全圏から、処理水の排水について、「自分は安全だから」と被災当事者の気持ちなど考えずにこういうことが言える。
何が俳人だ。
25歳のわたしにわかって、歳を重ねてきたあんたがなんで分からんのよ。
本当に愚か。
ある出版社を経営している人だけどこの人の出版社からは買いません。
邑書林っていう出版社なんですけどね。
「出している本はいいのに」代表がこんなんだと作者が可哀想ですわ。
(一部抜粋)
そういったマジョリティの側から「福島忌」を発信することは、原発事故への憂慮に「自分が住んでいる地域ではないが(自らは傷つかずに済ませられるが)」というパラテクストを、無意識のうちに付加しているのだ。
少なくとも、そのパラテクストを含んだものとして読まれてしまう可能性を孕んでいるのだ。
「福島忌」の議論も、「死んでいるか否か」や「忌日/季語としてふさわしくない」といった議論で止まるのではなく、「他人事として消費していないか」という視点まで広げてゆくべきなのだ。そしてその視点は、「福島忌」を超えて議論されてゆくべきものではなのだ。「福島忌」も「感動ポルノ」も、当事者を消費/搾取しているという感覚を持つ必要が、我々にあるのではなかろうか。