一方的に叩くというのもあれなので、わたしが一昨年書いた論考を載せる。
わたしの意見も見た上で、わたしのこの「晒し」についての是非は決めてくれ。
https://drive.google.com/file/d/1MWyGKwz_Ul8k83EvZFkra2ECaz-Z9zx9/view?usp=sharing
(一部抜粋)
そういったマジョリティの側から「福島忌」を発信することは、原発事故への憂慮に「自分が住んでいる地域ではないが(自らは傷つかずに済ませられるが)」というパラテクストを、無意識のうちに付加しているのだ。
少なくとも、そのパラテクストを含んだものとして読まれてしまう可能性を孕んでいるのだ。
「福島忌」の議論も、「死んでいるか否か」や「忌日/季語としてふさわしくない」といった議論で止まるのではなく、「他人事として消費していないか」という視点まで広げてゆくべきなのだ。そしてその視点は、「福島忌」を超えて議論されてゆくべきものではなのだ。「福島忌」も「感動ポルノ」も、当事者を消費/搾取しているという感覚を持つ必要が、我々にあるのではなかろうか。
当事者から遠く離れた人が、安全圏から当事者について詠むことについての批判の論考です。