→100分de名著
親戚のおじさんに、名前ではなく「嫁さん」と呼ばれ物を取りにいかされモヤモヤした…という例で、「呼び方そのもの(言葉狩りのように禁止する)ではなく、呼び方に表れている社会規範やこうあるべき、そのものについて丁寧に話し合うべき〜」(この場合、嫁さん≒家の女、家に仕える人という規範)と朱先生が言っていたのもおもしろかったです。
「ローティは、言葉は我々が自由に使うものではなく、つかっているうちにどこか別のところへ運ばれてっちゃうと考えている」というのも、おもしろかったです。
Twitterの言い回しを使う時、自分の中でごく小さな違和感というか、インターネットの軽い人を装っているな…という感じる時があったのを思い出します。ミームを使うことで、おどけながら借り物の言葉で自分自身を隠していたのかもなあ。
私が何気なく使う言葉にも、歴史があって、もしかしたら誰かにとって好ましくない歴史的背景のある言葉かもしれない…。なかなかそういう話ってしないので、してみたいな。