映画「プロメア」について、ファンが嬉しそうに「バーニッシュには、ユダヤ人のオマージュがあるんですよ!」って語っていたのを見て、「いや、だとしたらあの強引なオチの付け方はなお悪くない?」ってなったの思い出した。
バーニッシュはユダヤ人が下敷きにあるとしたら、電力としてバーニッシュを利用するくだりは完全にユダヤ人虐殺だし、ただ生きているだけで差別されていたという描写に直結する。
非現実的な、そしてバーニッシュの未来に希望が持てるかは怪しいオチで世界を救ったふうに見せる物語が、現実へと出荷されたのが怖かった。
その後、「BNA」という一クールアニメをほぼ同じスタッフ陣で作るも、これは迫害される側の種族になってしまうことで、「被差別者の気持ちがわかったよ」というオチにしてしまう。ほんとうに? 被差別者が生まれてから受けてきたものを数ヶ月なりきっただけで「理解できる」んですか? と日本的な物語にゾッとしたのを覚えている。
これらのアニメのキャラクターたちが魅力的だからこそ、かえってその物語の力に視聴者が引き寄せられてしまう。私もキャラのことは好きなのです。
プロメアのオチは、「バーニッシュというアイデンティティを強制的に捨てさせる」というものなので、本当にユダヤ人オマージュだとしたら、そんなむごいことある? って気づけないんだろうか……?
ナチスドイツが虐殺対象としていたのは、ユダヤ人だけじゃなく、精神障害者や知的障害者でもある。そういう意味ではバーニッシュへの扱いは、私の当事者性にもつながるので、一視聴者として痛みを伴うのです。
また、日本が戦時中占領していた地域で、当地の住人に「日本国民」として生活することを強制した(日本語による教育など)背景も踏まえると、バーニッシュという存在をなかったことにするのは、戦時中に彼らの言語などの文化アイデンティティを奪ったのに通じるのでは、と考えてしまうのは、私の穿ち過ぎだろうか?