わたしの「まじめ」と世間や社会の思う「まじめ」は違っていて、わたしが「まじめにしているな……」と思いおこなうおこないは、世間においてはまじめではないおこないととられている。いつ、どうして、そうなったのか?わたしのまじめはどうして認められないのだろう、そもそも、シラフでやってるし、取り組みには真摯に向き合っているが、指示がない。あらかじめ完成間近のものを提案しないと選ばないのに、指示なく動かざるを得なくなってきているのに、決裁権がないから宙ぶらりん、を繰り返しており、「一緒にやる」って、なに?てなるし、そういう態度をとるのが正規だという現実はゲー出る。だからずっと凍えるような闇の中にいる。