スポーツはどこまで行っても生活と差別の一部であって“妥当な科学的基準”なんてものは存在し得ないよ。ヒトの歴史上誤って存在した無数の娯楽の一つだ。

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風呂やトイレを“妥当な科学的基準”に基づいてルールを決めれば解決すると考えるのがナンセンスというかそれこそが差別だというところまではマジョリティでもちょっとものが考えられる人は理解できる。

だけどスポーツとなると途端にバグる。

それをのんびりと“議論による差別の可視化だ、進歩だ”とか言えるのは自分がマジョリティだからであって、と書くと“じゃあ黙れというのか!?”と来る。当事者はあなたが進歩するための材料じゃないんですよ。

これ、わたしを含めてですが、TwitterとMastodonで何億回も見た光景だ。

わたしもある局面ではマジョリティ、別の局面ではマイノリティという有象無象の1人なので当然さまざまな議論を目にして“差別が可視化”されて“勉強になった”とか内心思うことは沢山ある。

だけどそれを意図せず差別してしまったことの言い訳にはしたくないなとは思ってる。いやしちゃってるんだけどね、差別も言い訳も、全然悪意なく人の足を踏みまくってると思う。

だからこういうこと書くのは卑怯で不誠実なんだろうけど。

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