新しい町へ行くだろう。映画館を探すことにしてるんだ。それもなるべく小さくて汚れたやつ――どういうもんかなあ。俺、昔から映画はそういう小屋で観ないと気分がでないのさ。時間みはからってまず小便済ましてさ、それからピーナッツ買って、客席の半分壊れたような椅子に腰を下す。前の席の背もたれに足を投げ出すとな、ベルが鳴るんだ。ぞくっとくるね。……
佐藤信『キネマと怪人』から、ジミーことジェームス・ディーンの台詞。
映画館がそのような場でもあることが許された時代。
ところで、「ジェームズ」か「ジェームス」か。ネットで検索すると、映画のポスターでも「ジェームス」になってるから、昔は濁らなかったのかもしれない。
『ブランキ殺し上海の春』の「ブランキ版」と「上海版」、それに『鼠小僧次郎吉』物を2本、佐藤信の戯曲を読んでみたが、まるでわからない。
これはわかりそうと感じつつ読みはじめた『キネマと怪人』だが、どういうことになるか。
拾い読みという解。
本をパラパラやって、アンテナに引っかかったフレーズか段落を取り出す。
短いから、そのぶん理解も批評も容易。
もとの文脈を知らないのだから、誤読はありうる。もっとも、文脈のなかで理解しようとしても、やはり誤読はありうる。
再利用の場合も、誤読の上での再利用となりうる。
だったら元の文脈は無視すればいい。
全体として成り立っている文章から章句を取り出せば、元の文脈からは外れてしまう。それを承知で、既存の文章の断片を別の文脈にはめこむ。これを「断章取義」という。
部分の拾い読みで済ます。拾い読んだだけで、わかったかのように再話し、批評し、自身の創作物にはめこむ。
それしかできないなら、そうするしかないのだが。