本は拾い読み。
本を通して読んで、人に伝えられるような形でそれを理解して、理解したことを人に伝える。そんな読み方は自分にはできないのだから、分相応に拾い読んでコピー&ペースト、あるいはコラージュ、あるいは改ざん、自分にできるように読んで、自分にできるように使う。
ということで、佐藤『キネマと怪人』から。
佐藤 死体ばっかりだ。川の中に折り重なり、道端に積み重ねられ――生きている自分の方が、まるでとりとめなく、たよりないものに思えてしまう。
山中 まる半日、歩きづめに歩いて、それでもまだ終らないような広びろとした景色。あれもやはり景色と呼ぶのだろうか。あの一面の焼野原。
東京大空襲の体験なのか、思い出なのか。とりあえずわからない。
もうひとつ、この佐藤とは佐藤信を指してるのか。
いくぶんかは指してるのだろう。自分を自分の名で作品に登場させること。
拾い読みという解。
本をパラパラやって、アンテナに引っかかったフレーズか段落を取り出す。
短いから、そのぶん理解も批評も容易。
もとの文脈を知らないのだから、誤読はありうる。もっとも、文脈のなかで理解しようとしても、やはり誤読はありうる。
再利用の場合も、誤読の上での再利用となりうる。
だったら元の文脈は無視すればいい。
全体として成り立っている文章から章句を取り出せば、元の文脈からは外れてしまう。それを承知で、既存の文章の断片を別の文脈にはめこむ。これを「断章取義」という。
部分の拾い読みで済ます。拾い読んだだけで、わかったかのように再話し、批評し、自身の創作物にはめこむ。
それしかできないなら、そうするしかないのだが。
#拾い読み #断章取義