新しい町へ行くだろう。映画館を探すことにしてるんだ。それもなるべく小さくて汚れたやつ――どういうもんかなあ。俺、昔から映画はそういう小屋で観ないと気分がでないのさ。時間みはからってまず小便済ましてさ、それからピーナッツ買って、客席の半分壊れたような椅子に腰を下す。前の席の背もたれに足を投げ出すとな、ベルが鳴るんだ。ぞくっとくるね。……

佐藤信『キネマと怪人』から、ジミーことジェームス・ディーンの台詞。
映画館がそのような場でもあることが許された時代。
ところで、「ジェームズ」か「ジェームス」か。ネットで検索すると、映画のポスターでも「ジェームス」になってるから、昔は濁らなかったのかもしれない。

『ブランキ殺し上海の春』の「ブランキ版」と「上海版」、それに『鼠小僧次郎吉』物を2本、佐藤信の戯曲を読んでみたが、まるでわからない。
これはわかりそうと感じつつ読みはじめた『キネマと怪人』だが、どういうことになるか。

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本は拾い読み。
本を通して読んで、人に伝えられるような形でそれを理解して、理解したことを人に伝える。そんな読み方は自分にはできないのだから、分相応に拾い読んでコピー&ペースト、あるいはコラージュ、あるいは改ざん、自分にできるように読んで、自分にできるように使う。
ということで、佐藤『キネマと怪人』から。

佐藤 死体ばっかりだ。川の中に折り重なり、道端に積み重ねられ――生きている自分の方が、まるでとりとめなく、たよりないものに思えてしまう。
山中 まる半日、歩きづめに歩いて、それでもまだ終らないような広びろとした景色。あれもやはり景色と呼ぶのだろうか。あの一面の焼野原。

東京大空襲の体験なのか、思い出なのか。とりあえずわからない。
もうひとつ、この佐藤とは佐藤信を指してるのか。
いくぶんかは指してるのだろう。自分を自分の名で作品に登場させること。

拾い読みという解。
本をパラパラやって、アンテナに引っかかったフレーズか段落を取り出す。
短いから、そのぶん理解も批評も容易。
もとの文脈を知らないのだから、誤読はありうる。もっとも、文脈のなかで理解しようとしても、やはり誤読はありうる。

再利用の場合も、誤読の上での再利用となりうる。
だったら元の文脈は無視すればいい。
全体として成り立っている文章から章句を取り出せば、元の文脈からは外れてしまう。それを承知で、既存の文章の断片を別の文脈にはめこむ。これを「断章取義」という。

部分の拾い読みで済ます。拾い読んだだけで、わかったかのように再話し、批評し、自身の創作物にはめこむ。
それしかできないなら、そうするしかないのだが。

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