先の記事の続き。1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」は、21世紀の今も「深情難捨」または「深情難忘」として歌い継がれている。ただし、日本でも上海でもなく、台湾で。
https://www.youtube.com/watch?v=MYaPRG_PZnY&t=6s
数年前になるが、アメリカで日本の80年代シティポップがはやっていると聞いたことがある。一般化して言えば、世界のあちこちのカルチャーの場には、時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがあるのではないか。たとえば、シルクロードの彼方からやってきた文物が、日本で正倉院に残されていたり、雅楽として引き継がれているように。
YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されている。
プロダンサーの山田妙子は、駆け落ち先の大連で男にも仕事にも見切りをつけ、1938年初頭、上海に渡った。
虹の入り口というイメージの「虹口」は、期待はずれの街だった。「横浜橋」という小さな橋を渡りきると、目の前に掘っ立て小屋のような木造二階建てがあり、「Blue Bird」と看板がかかっていた。これが虹口で一番のダンスホールなのか。看板の文字が英語なのがせめてもの救いといったところだった。
古くから上海にいるダンサーが妙子に言ったこと。
あのね、「上海ってすごく素敵」とか言うけど、実際に素敵な租界で暮らした日本人なんて、ほんの僅か。
あたしも来る前はそう思ってたけど、じっさいは見ての通り、長崎からパスポートなしで来られるから、虹口なんて長崎の田舎みたいなもんよ。租界に行くには、とにかく西洋の言葉がひとつできないと。住むなんてとんでもない。
妙子の目に映った虹口は欧米人の闊歩する上海ではなかった。向上心の強い彼女は一流ナイトクラブでのソロダンサーを目指して、河向こう=租界の欧米人社会に挑んでいくことになる。
これも榎本泰子『上海』による。榎本のソースは山田妙子(和田妙子名義)自伝。
……街中焼け跡だらけだもんねえ。(外を見て)あの連中が悪いのよ……あの連中が、涼しい風がふきぬける糸杉の散歩道や赤レンガの建物を瓦礫の山にしてしまったの。……半ズボンに長靴下をはいた金髪の青年たちは、テニスコートでラケットをふるい、絹のドレスのレディやマダムたちは、まるでそのうららかな午後が永遠に続くかのように、セイロンティーを飲みながら、とりとめもない時間に身をまかせ……。すごかったのよ、女子供は本土へ帰れって言われたけどね。フランス租界にいれば大丈夫だからって、……なにしろ、フランス租界をはさんで、こっち側が日本軍、向こう側が中国軍、頭ごしに大砲の撃ち合いやるんですもの……映画観てるみたいだったわ……
斎藤憐の戯曲『上海バンスキング』から、マドンナの台詞。
時と場は、1938年初春、虹口の中国式石造住居。
経緯の説明を欠く唐突な台詞だが、前年8月に勃発した第2次上海事変がおさまったこと、その間、彼女がフランス租界に戦火を避けていたことを言っている。
1938年は、ダンサーの山田妙子が大連から上海にやってきた年。
https://fedibird.com/@mataji/112108478372540787
また、東海林太郎の歌で「上海の街角で」が発売された年。
https://fedibird.com/@mataji/112090811684859829