自分が自分の他人になること。
《どこへ行っても私がいる。
どこへ行っても他人がいない。畜生。ハンフリー・ボガートめは、うまいことしやがった。
あの人は映画の中でも死ぬことができた。映画の外でも死ぬことができた。地球を二つに割って、その片方に腰かけて、もう一つの片割れがスクリーンの中をゆっくり浮遊するのを見ながら自分で自分の他人になることが出来たんだ……
だが、私は私自身の他人にはなれない。私にはスクリーンがない。
私が映画の中で死ねると思いますか?》――寺山修司「さらば、映画よ」
「さらば、映画よ」は二人の同性愛者の会話からなる戯曲。雑誌『悲劇喜劇』で1961年発表、改稿を経て1968年初演。
戯曲「身毒丸」の先生とまま母は同一人物か。
まま母が先生に化けているのか。
この話が少し怖い。
フィクションに対して野暮な言いがかりだが、先生がしんとくに先回りして自宅に帰り、まま母にもどって夕飯のしたくまで終えている。そんなことは物理的に無理。ということは、先生とまま母は別人でなければならない。
先生とまま母が別人なら、この世にまったく同じ造形の人物が二人いることになる。
ということはドッペルゲンガー?
いや、そうではないだろう。ドッペルゲンガー現象には主体が欠かせない。ある人がどこかで、月夜の海岸だったり劇場のロビーだったりで、自分を見かける。そんなことが二、三度も続くと、そのある人はまもなく死ぬという。死ぬか死なないかはともかく、この「ある人」が現象を認識する主体である。
ところが「身毒丸」のケースはドッペルゲンガーもどきであって、自分を見かける主体がない。どこにも自分がいない。
いわば主体なきドッペルゲンガー。そこのところが少し怖い。どこにいるんだよ、自分。