しんとく「ぼくのまま母は先生によく似ている。」
先生「……」
しんとく「もしかしたら、先生の正体はぼくのまま母なんじゃありませんか! ぼくのほんとの母は髪がみじかく、日なた草のようにいつもあたたかかった。ところが先生も、まま母も、真っ黒く長いぬれ羽色の髪の毛をもっている。」
先生「よめたわ、しんとくさん。あなたの狙いは、せっかく家庭におさまったお母さんを、なんとか追い返そうという魂胆なのですね。」
寺山修司の戯曲「身毒丸」の教室の場面。
先生がしんとくのズボンをぬがせ、鞭をふりあげたところで他の生徒もふくめ教室全体がストップモーションに変わる。
変調した学校唱歌が遠くから流れてくる。
しんとく一人が、ふいにストップモーションから抜けて走り出す。
しんとく「今だ! いま、大急ぎで家へ帰れば、僕の方が早く着くだろう。そうすりゃ、先生に化けたまま母の正体がはっきりするのだ。」
ところが家に帰り着くと、しんとくの父、まま母、その連れ子のせんさくがちゃぶ台を囲んでいる。どう先回りをしたのか、まま母はすでに家にもどって、晩ごはんのしたくを終えていたのだった。
(この件、つづく)
戯曲「身毒丸」の先生とまま母は同一人物か。
まま母が先生に化けているのか。
この話が少し怖い。
フィクションに対して野暮な言いがかりだが、先生がしんとくに先回りして自宅に帰り、まま母にもどって夕飯のしたくまで終えている。そんなことは物理的に無理。ということは、先生とまま母は別人でなければならない。
先生とまま母が別人なら、この世にまったく同じ造形の人物が二人いることになる。
ということはドッペルゲンガー?
いや、そうではないだろう。ドッペルゲンガー現象には主体が欠かせない。ある人がどこかで、月夜の海岸だったり劇場のロビーだったりで、自分を見かける。そんなことが二、三度も続くと、そのある人はまもなく死ぬという。死ぬか死なないかはともかく、この「ある人」が現象を認識する主体である。
ところが「身毒丸」のケースはドッペルゲンガーもどきであって、自分を見かける主体がない。どこにも自分がいない。
いわば主体なきドッペルゲンガー。そこのところが少し怖い。どこにいるんだよ、自分。
#寺山修司 #他人 #ドッペルゲンガー