今夜は酔っ払って帰宅した妻の話し相手をしながら、どうにか彼女をなだめようと(寝かしつけようとw)、ふと思い立ってスティーヴ・ライヒの「Piano Phase」を久し振りに流してみた。
ライヒが「Piano Phase」を作曲したのは60年代終盤だったと思うけどその当時いはぼくはまだ生まれておらず、ぼくがその音楽を初めて意識したのは90年代終盤のサブカルチャーシーンのなかでのことだった。
ずいぶんと時間が経ってから、あの当時の〝サブカル〟シーンの不毛さ、というか後退性に気付くことになるのだが、当時は渦中にいたからそのことにまったく気付かなかった(ライヒの音楽のことではなく、いわゆる日本におけるサブカルの後退性に気付かなかったということです)。ここには「カウンター」の発想が一切ないと気付いたのは、当時のサブカルブームを新しがって享受(消費)して悦に入って遊び惚けた結果「なんかちがうぞ」とやっと気づいてから数年後のこと。
日本のいわゆる〝サブカル〟はコンシュームするものとしてもの極めて有効だったかもしれないけど、カルチャーとしては実は何も(意識的に)生み出そうとしておらず、そのような意志がまるでなかったということに気付いたのは、自分がサブカルの消費者となって5年くらい経てからのことだった気がする。