個人的な志向としてある人が好きであったり嫌いであったりすることはおれにも当然あるし、そういう判断には往々にして、その人が何を考え何を言って(あるいは言わないで)何を行うか(あるいは行わないか)というのが密接に関わっているわけだけれど、こと差別について考えるとき、個人のレベルでそういったことを気にし続けるのは、ときに誤った方向に議論を誘導するので注意が必要だと考えてる。
たぶん差別というものは、第一に具体的な制度の問題としてあり、第二にその具体的制度に誘導された個々人の振る舞いとしてあるものだから、第二のレベルだけを考えて第一のレベルを見誤ることは、社会の仕組みとしての差別を温存する力にもなりうるんだと思うんだよね。
だから差別が嫌いな人たちは、まず第一に差別的な制度を変えることに尽力すべきで、自分や身近な他者の振る舞いを見直すことは、ある意味でそのあとでいいと思うんだよな。
もちろん、そのことによって個人の差別的言動が免責されるわけではないし、日常的に遭遇する差別的コミュニケーションが被差別当事者に与えるダメージが無視できるレベルで軽いわけではないんだけど。
にしても、自分を顧みることに精一杯で、制度のレベルまで目がいかないいい人たちは多いなあと、完全に主観でなんの根拠もないけれど、感じてはいる。