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ふと、両手で手書きできたら、違う感覚で作業ができるのではないかと思い、時間を見つけては、左手で字を書く練習をしている。意外と書けるものだなと思った。

右手で書いた文字を教師として、それをなぞる方法がネット記事であったが、左手は左手で別の筆跡になるのか興味深いところではある。字の美しさを見ているのは目なので、もしかしたら、右手と同じ筆跡になってしまうのかも知れない。とりあえず、自分で実験してみようと。そして、両手で同時に文字を書けるものなのかも知りたい。

両手で協働する、というのもアリなのかも知れない。実際、珠算で両手を使って高速に計算する動画を見たことがある。見事なまでに両手が連携していた。ただ、左手の役割は、右手に比べて限定的ではあったが。

計算機やスマホがあるのに、わざわざ手書きするのは、思考を深められるから。ペン状のモノを使って字を書くという行為ほど、器用で繊細な行為はなかなかない。そのため、集中力を必要とする。副効果として、脳への血流が増えるのかも。手書きする習慣を捨ててしまうのは、何だか勿体ない、と改めて思うようになった。

最近、近所の100円ショップで格安のペン・タブレットを見かけた。書(描)いたものを保持し続けるか、全消去するという機能しかないが、こういうモノが出てくるということは、やはり手書きで何かを表現する欲求が人間にはあるのかも知れない。

であれば、紙で十分というか、紙の方がいいんじゃないかと。もしかして、森林伐採を防ぐために、紙の製造を止めましょうという方向に進んでいるのか?と、少し不安になってしまった。人間の歴史を見ていると、必ずしも良い方向に進化しているとは限らないので。そういうことを言い出す人が主流になったら、本当にそうなってしまうかも。

計算機で文字を打ちながら考えるのと、手書きで考えるのとでは、何かが違うので、両方を使い続けている。違いは自分の中で、まだ明確になっていないが、手書きという原始的な手段には、何かひかれるものがある。

未来の子どもたちは、もしかしたら、手書きという手段を知らないで文字を使うように脳が進化しているのかも。そんなことを、ふと思った。

利き手でない左手で字を書く練習を暇を見つけてはやっている。大きな変化は、右手で書く時、ここまで器用で自由に文字が書けるのか、という感動に気づけたことだ。不便さを経験することで、モノの有り難さが分かる、という、どこかで聞いたような話だが、それを身を以って経験できた。

よく右脳活性化とか、創造力が刺激されるとか、理屈をつけたがる人がいるが、純粋に楽しいからやっている。そんな動機でいいんじゃないかと。いちばん面白くないのは、他人に言われて、やらされ感を伴いながら強制されることだ。どんな楽しいことでも、この「やらされ感」が全てを台無しにする。逆に詰まらないと思われていることでも、自分にとっての意義を見出して取り組めば楽しくなってくる。

捕虜に対する拷問で、穴を掘っては埋め、また穴を掘っては埋め、という作業を延々とさせる、というのを聞いたことがある。これも「肉体鍛錬をしている」という意味づけを自分ができたら、楽しい作業になる。そうでないと、ダンベルやバーベルを持ち上げるためだけに、金まで払ってジムに通う、穴掘りと大差のないことが、ビジネスとして成り立つはずがない。どんな意義を見いだすか。逆に、相手に、どんな勘違いをさせるか。それにかかっているのかと。

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