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90年代においてトラウマやPTSDという言葉が浸透する過程に、阪神淡路大震災の死者数と瓦礫光景が与えた強烈なショックが大きいのだろうという一節をたまたま読んでいたが(岩川ありさ『物語とトラウマ クィア・フェミニズム批評の可能性』序章)、311を経て今回の震災とSNSの関係は、被災者の傷への憂慮という域を悠々と越えて、被災していない部外者が、被災地も被災者もどうでもいいと言わんばかりに、「自分のもつ正常性イメージをトラウマ的に傷つけられた」ことを救済せよ、と叫んでいるような場面があるように思える。

傷ついた非被災者は、救済のために生贄を求めていて、その候補としてNPOやボランティア、野党議員、インフルエンサーなどを次々と召喚する。

ここでは、SNSを介してショックとその共有が、もはや被災地・被災者という局限性を掻き消し、別の補填作業がエコーチェンバーとなって覆い尽くす状況があるのだろう。傷

傷付きゆえに、「アンチ批判」となり、邁進するような反転が起きる。

ここでは、傷と暴力への怒りからエンパワメントや連帯へと至る過程が、逆手に取られてハックされているような気がする。

もはや、災害と傷の関係や範囲が、メディア経験の変容によって、大幅に変わってきているんだろうな。

別の視点でまとめると、現在のTwitterは、それ自体で、人を傷つける乱気流めいた災害性がある、ということでもある。

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