「それ、お湯でしたか」と萩原はその手もとを無遠慮に眺めて、これが初めて、物をたずねた。
「そうさ。白湯だ」と老人は茶碗を悠然と両手に持ち変えて、こうして見ると三白気味の目を剝いた。「白湯ほど旨いものはない。とりわけ、年の暮れの白湯は。甘露とは、知るまい、このことだ」
その目が潤んだ。瞳が薄いようになった。
「しかし、酒の匂いがいつも部屋の中からしてますが」と萩原は引かずにたずねた。
「それは、酒の匂いがないでは、つまらん」と老人は煙にむせるような笑いを洩らした。
「徳利を一本、火鉢の灰に埋めておく。その酒が、それさ」
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「白湯」
古井由吉『忿翁』新潮社、2002年、p. 52