インターネット上のフェミニストは自ら積極的にフェミニストになろうとしたわけじゃなく、(ネット上では特に過激な)ミソジニーの構造上、フェミニストにならざるを得なかったのかもしれない。その消極的とも言えるネットフェミニズムは、同時に自らの女性性を奪われる不安を喚起させる(実際の性暴力被害のフラッシュバックの場合もあろう)。その迫害的とも言える不安の対象は、消極的だからこそ、マイノリティであるトランス女性に向かうのかもしれない。一方、シス男性のトランスヘイターはただミソジニーを発動しているだけであり、ヘイト行為をすることで自らのサディズムを示しているだけであろう。いずれにせよ、そこには個人の発達のアセスメントも社会の構造のアセスメントもなく、アンビバレントな葛藤を抱えられない行動化でしかないように思える。言い換えれば、二元論的構造の呪縛である。