トランス差別に関する議論に(それとなく、も含め)参加したり近いとこにいる人も、「言説やその発生源に対する『防波堤』としての言説」だけでは限界がある、ということはどこかでうっすら感じてる人が多いんじゃないかと(半ば希望的観測だけど)思うんだよな。
とはいえ、(そうわかってることを前提としても)なんで言説で防波堤を築くことにいっぱいいっぱいになってしまうのか、ということは、端から見てるだけにすぎないくらいの関与度や知識しかもたないおれにはまだちょっとわからんけれども。
キャッチーで恐ろしい言説ほど広まりやすいから、それを好まない人が分が悪くなり、相手と同程度の強さの言葉で立ち向かわざるを得なくなり、言説の展開の仕方が不幸にも似通ってしまう、というのとか、あるんだろうか。
あるいは、差別的言説とその源泉との対話にリソースをさくのは(相手がマジョリティであることが多いことから?)現実的ではないとして、そちらはあえて相手にせず、「それが差別的言説であることに同意してくれて、自分たちの側に立ってくれる人」を増やす、つまり「外堀を埋める」のをまず優先したい、というのもあったりするだろうか。そっちのほうが現実的な捉え方か。