たしかにおれの(かなり鈍い)直感でも、「あることを理解しようとしない他人」に対しては、批判的な、ともすれば攻撃的にもなる言動を一旦鞘におさめ、その不満についてどう思ってるのか、なぜそう思うのか聞いた上で、相手に歩調を合わせつつ(だが相手に飲み込まれぬように)対話し説得することが、たぶん絶対的に必要だし、でもいま足りてない、とは捉えられてる。
とはいえ、他方、こうも直感してたりする。
そういう説得的な言説は、もしかしたら一対一の対話でしか有効たりえないのではないか。説得的な書籍やコンテンツで誤解を解く情報を発信しても、それを必要とする対象にはなかなか届かないか、下手したらもともとそれに親和的なクラスタ内でのみ流通し、ただの自己満足の種で終わる場合もある(議論の周縁にいる人への有効性も無論あるので無駄ではないとは思うが)。
そして、一対一の対話で誤解を解いてゆくのは並大抵ではない。たぶんリソースも時間も必要。
かつ、いまそういうトランス差別のような波風にさらわれそうになってる人々への「防波堤」はどうするのか。波風をおさめるのは必要。だが、防波堤、つまりいまある言説に対して抗うための態度や言説も存在し、役目を果たさなければ、とは思う。
いやまあ、それは前提となってる話ではあろうしけども…
あるいは、差別的言説とその源泉との対話にリソースをさくのは(相手がマジョリティであることが多いことから?)現実的ではないとして、そちらはあえて相手にせず、「それが差別的言説であることに同意してくれて、自分たちの側に立ってくれる人」を増やす、つまり「外堀を埋める」のをまず優先したい、というのもあったりするだろうか。そっちのほうが現実的な捉え方か。
そういえば(自分も一応そうだが)左寄りの人だと(いわゆる)ネトウヨや(いわゆる)TERFと「対話」するのは時間の無駄と捉えてる人がわりといる印象がある。個人的にはちと違和感がある態度とは思うのだが、「下手に対話のチャネルを開くと、対話を装ってただのからかいを続ける人間や、逆にこちらを論破しようとして議論で負けようがどうしようかこちらが逃げたことにして論破したことにする人間が現れる」「対話のチャネルを開いて衆人環視の環境で議論をすることが、かえって相手方の『宣伝』になってしまう」というとこもあってのことなのかな、と思ったり思わなかったり。