2023年映画「窓ぎわのトットちゃん」は留保なしの「いい映画」だった。アニメの技術はもっと詳しい方が話しているだろうし、ひとまず書きとめておきたいのは、原作者の他著と比べたとき、この映画の原作がどんな書かれ方をしているか。
著者(黒柳徹子)は(僕が読んだ)どの著作でも「読み上げるような書き方」を選んでいる。時制は過去形を基本に、息つぎに素直な句読点と、文法的によく整った、ねじれのない短文で、話者の気持ちを隠さず、どんな文章も語彙の難しさを大きく変えずに書いている(台詞、描写、説明、内心いずれも)。
この書き方は異なる書籍ジャンルでも大きく変わらなくて、著者のこだわり(もしくは癖みたいなもの)だと言ってよさそう 。実況解説の向きがつよい『チャックより愛を込めて』や、大人っぽい散文に近づけた『トットひとり』のほか、絵本らしい語彙と改行頻度の制限がある『窓ぎわのトットちゃん』も、おおむねそんなところがある。
「読み上げるような書き方」は、「話すように書く方法」のひとつで、著者のそれはニュース原稿やラジオドラマのモードに近いかもしれない。この書き方を採用しながら、作中話者は現場にいつつ、しかし観察的な態度を崩さないナラティブがなされているので、読み手が被写体の動きを追いかけやすいだけでなく、語り手が(続)
話の途中に文脈・背景の補足を入れても悪目立ちせず、だれの内面にも(語り手の心中にさえ)簡単に出入りしても、さほどあざとくない雰囲気になっている。
こういう作風は、著者が映像化を拒みつづけてきたこととは裏腹に、実写であれアニメであれ、「動き」を表現しやすい映画という手法に向いていると思う。シナリオを構成しやすいし、音声だけの作劇を考えるのに比べたら、画面レイアウトも設計しやすいんじゃないか。ベストセラーであることを抜きにしても、刊行当時からこれまでにオファーが殺到していたのもうなずけるというか。
その代わりにむずかしいだろうのは、試写会をみた原作者(黒柳徹子)も語っていたけど、登場人物の性格を表現する演技や、表情・身ぶりのクローズアップ、(大衆映画としては)激しい展開の少ない断章的なストーリーを飽きずに見せる起伏の作り方、といったところか。どの難所にも製作陣はしっかり取り組んでいて、作画の素人(例:僕)にも見応えがあるように、手を替え品を替えた演出があちこちで試みられていた気がする(じっさい「夢」の場面は評判がいい)。
なかでもすごかったのは、(主役ふたりの前景で)校庭で遊ぶ子供たち、運動会の二人三脚、改札口から停車場まで駆け上がるところかなぁ。時代劇らしい泣かせの演技の分量はちょっと多すぎたかも。