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水俣病被害者の会の事務局長さんのインタビュー記事、なるほどと思うことが多いです。

記事を読むと、原発事故の対応にもかかわられているんですね。

「ただ、この10年ぐらいでしょうか。水俣病に限らず国が国民と相対する場面で、非常に強硬な姿勢が目立つことが気になっていました。原発事故後の政府との交渉でもそうでした。だから今の環境省なら、マイクの音声を切ることぐらいはやりかねないのかなとも思いました。信頼関係は細くなってきていたのかもしれません」

終わらない水俣病 マイク切りに抗議した被害者の会事務局長の思い
asahi.com/articles/ASS6N3RHCS6

特に、最近も、最初の水俣病認定時に戦った昭和一桁世代の子供達世代が、次々と原告団に入ってきているというのは、驚きました。

渡辺京二が『死民と日常《私の水俣病闘争》』のなかで、水俣病はやがて解決する(から自分は運動から手を引いた)、との楽観的な文章を書いていますので、↓の引用にある認識を、水俣病の近くにいた多くの人たちが共有していた、というのは納得できます。

ただ、私が渡辺京二のその言葉に違和感を持ったのは、その認識は、離れてしまえば関係ない世界を生きられる立場だから言える言葉なのではないか、との思いが拭えなかったからです。

自分の意思で当事者になった人と、当事者とならざるを得なかった人との大きな違いは、後者は、水俣病なら水俣病、原発事故なら原発事故と、自分がいやでも生涯にわたって影響を受け、かかわらざるを得ない、という点です。

それを考えると、渡辺の言葉は疑わしい気持ちを持たざるを得ませんでした。

「痛恨の反省事があります。90年代半ばの1度目の政治解決の後で、『これで水俣病はほぼ片付いた』という認識が私にあった。これからは例外的な形で認定の申請をする人がいるくらいかな、と思ってしまったのです。」

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