知らないことには触らない、近づかない、…ってしてれば間違うことも恥をかくことも無いけど、それ市民としての最低限の責務の放棄だし、民主主義の…というか「あなたにとって最低限“快適な社会“はあなたの参加無くしては成り立たない」という。「あなたの代わりをする人はどこにもいない」

民主主義を否定する教育:
「教えて貰った正解だけ覚え、それ以外余計なことは考えない。言わない。勝手なことはしない」「“皆“と違うことは迷惑になるから言わない。考えない」「“偉い人“と違うことを言ったりやったりして余計な時間や手間を取らせない」「皆が気持ちよく過ごせるように争いは避ける」

「あなたはあなたであって、他の人では絶対に代替が利かない」というのが民主主義の本髄なんだと私は信じている。1人ずつ全員が違うという世界で、「最大多数の最大わがままの尊重のために調整する社会の仕組み」が民主主義。

そう言えば「面倒臭いやつだと思われる」ことに恐ろしく怯えている人は少なくない。私自身はかなり意図的に「チクショー!面倒臭いやつをやめてやるものか!たとえ『オマエが世界でただ1人で世界中の人に面倒をかけているんだぞ』と言われても止めてやらない!」と心掛けているが、本当は怯えている。

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「意地でも自分自身でい続けること」は、民主主義社会においては、個人の責務でさえあると思う。

ただその個人が幼稚すぎると「個人がその人でい続けること」は民主主義のベースに乗せられなくなる。例えばネトウヨやインセルみたいに。彼らも“彼らなりに“「自分自身であること」を必死でやってるけど、幼稚過ぎて言語的なやりとり以前の“行為“による表現になり「擦り合わせ」が不可能になる。

彼らも一見すると言葉を使っているように見かけ上は見えるけれど、他者との同じ言語というツールを使った考えの交換やすり合わせの出来ない言語は実は似非言語であって、あれは表向き言葉を使っているように見えるけれど、ただの嫌がらせや挑発などの行為としての表現にすぎない。

これは、実は精神分析的な視点を持つと割と普通に見えてくることなんですよね。何故かと言えば面接の中では日常茶飯事として起きることなので(クライエントが治療者に嘘をついたり、嫌がらせしたり、挑発をしたりというのは割とよく起きます)。

人間はちゃんと言葉で言いたくないけど、相手に言うことをきかせたいとか、自分の思いを押し通したいとかいう欲求を、誰でも普通に持っているので(夫婦や親子の喧嘩など親密な関係では普通に出ますよね、お互い。「自分は例外だ」という人は寧ろ怪しい)。特に精神分析的な面接では普通に退行が起きるので誰でも当たり前にその人の中の「幼い面」を見せるようになる。

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