戦争が終わったとき、灯火管制のため家の電球にかぶせていた黒い布を外した。父は電気とはこんなに明るいものかとびっくりした。
また父は戦後の学校で、教科書の墨塗りをさせられた。(☜ワイが小1のとき「家族などから戦争の話を聞いて発表する」という宿題が出た。この話は先生に、とても大事な話だと評価された。大きくなってから意味がわかった…教科書もメディアも政府もウソをつくのだ。)
祖父Kは戦争当時30代で徴兵されないと思われたが、なんとされた。妻子や家業と離れ、豊橋の軍港で“老兵”として働いた。そこで激しい飢餓に遭った。あるとき農家の娘さんが桃をくれたことがあり、うまさが忘れ難いと、自分史に綴っている。
祖母S(祖父の前妻、ワイと血の繋がった祖母)は、町内で何かの会の会長をしていたそうである。国防婦人会とかだろうか…。幼児期を東京で暮らしてSの記憶がほとんどないワイが言うのもなんだが、話に聞く彼女の人となりからして、進んで会長をしたがる人ではない。一応田舎の名家の跡取り娘だったから、言われたら引き受けざるをえなかったのではないか。Sはめちゃくちゃ多忙だったらしい。夫が兵隊にとられ、子どもは複数、家業を切り回し、現場で働く女だった。
母の人生最初の記憶は、防空壕の暗がりで怯えていたこと。ワイは長いこと、それは市街地の方向が空襲された日のことだと考えていた。三河地震の日だったかも?と母は言ったが、ワイには地面が揺れて穴倉に避難するとは信じ難かった。しかし母の兄たち曰く、防空壕はとても頑丈な作りだったから、地震避難も充分考えられるとのこと。
三河地震は死者行方不明者3500人近い大災害だが、報道管制され、救援がほとんどなかった。母の家は無事だったが…。
戦後、母ははからずも「ギブミーチョコ」をしたことがある。兄や近所の年上の子らに連れられて遠くの線路へ行った。土手で待っていると、汽車が現れ、白人の兵士が窓から身を乗り出して、子どもらに飴などを投げた。母は光景は鮮烈に覚えているが、何をもらったかもその味も、覚えていないそうである。
母の家庭も裕福なはずだったが、長い間満足に食べられなかった。卵1個でもご馳走だった。あるとき後で味わって食べようと、卵焼きを戸棚に隠した。しばらくして見たら消えていた。母は「悔しくって悔しくって…食べ物の恨みは恐ろしいよ〜」と語っていた。
戦争体験
母方:
祖母A子はワイの親戚の中で最も悲惨な体験をした。元は登下校に女中が付き添うようなお嬢様だったが、学徒動員で手袋などを作る工場へ。食糧は乏しく、労働は過酷、工場はネズミやノミがわく不衛生な場所、女子たちを監督する女性班がひどく威張っていて怖かった。
空襲が来たとき、祖母は逃げ遅れて工場の防空壕に入れなかった。祖母の友だちは入れた。ところが焼夷弾が防空壕を直撃し、友だちは(この場面で祖母はいつも口数が少なくなる)亡くなった。
祖母の家も丸焼けになった。
彼女が学徒動員されたのは1943年、14歳から。「14歳を動員するようじゃ敗けるね」
とても小柄なのは、成長期にちゃんと食べていなかったせいである。
財産もおおかたなくなったので、戦後は洋裁学校に通い、洋裁で身を立てた。彼女もまた男性が死にすぎたせいで40代まで独身だった。ワイの祖父とお見合いするまでは。(妻を亡くした祖父の後妻で、ワイと血は繋がっていない。)