父方と母方の戦争体験を書いておきます。こっちは文字数多くて便利だな。

父方:
父の最年長の兄は優秀で、家業を継ぐことを期待されていた。でも大学を「繰上げ卒業」させられ徴兵され、ルソン島で「戦死」した。たしか1945年5月、北部で?遺骨も帰らないし、詳しいことは何もわからない。ワイは近年フィリピンの日本兵には餓死が多かったことを知り、彼もそうだったのではと考えるようになった。
元は裕福な家だったが、戦時中は飢えた。父の姉S子は栄養失調から結核を患った。治ったけど一生労働できない虚弱な体になった。そして男性が死にすぎたので一生独身だった。
家屋は空襲で半分焼けた。財産はほぼなくなった。父(9歳)は遠く額田郡の、会社の人の親戚筋だか何だか(Twitterが謎凍結されなきゃ聞き書きツイートを検索して正確に思い出せたのに😡)のところへ疎開していて無事だった。その空襲では子どもも大勢死んだ。父は町に帰ってきてしばらく、焼け残った半分の家で暮らした。
父の兄S郎の体験談がワイの記憶にないのは残念である。尋ねたと思うんだが。
S郎の妻T子は「戦争中いいことなんか一つもなかった」と暗い顔で語った。T子の兄は、豊川海軍工廠に学徒動員され、2500人以上が死亡した空襲から奇跡的に生還したそうだ。

戦争が終わったとき、灯火管制のため家の電球にかぶせていた黒い布を外した。父は電気とはこんなに明るいものかとびっくりした。
また父は戦後の学校で、教科書の墨塗りをさせられた。(☜ワイが小1のとき「家族などから戦争の話を聞いて発表する」という宿題が出た。この話は先生に、とても大事な話だと評価された。大きくなってから意味がわかった…教科書もメディアも政府もウソをつくのだ。)

戦争体験
母方:

祖母A子はワイの親戚の中で最も悲惨な体験をした。元は登下校に女中が付き添うようなお嬢様だったが、学徒動員で手袋などを作る工場へ。食糧は乏しく、労働は過酷、工場はネズミやノミがわく不衛生な場所、女子たちを監督する女性班がひどく威張っていて怖かった。
空襲が来たとき、祖母は逃げ遅れて工場の防空壕に入れなかった。祖母の友だちは入れた。ところが焼夷弾が防空壕を直撃し、友だちは(この場面で祖母はいつも口数が少なくなる)亡くなった。
祖母の家も丸焼けになった。
彼女が学徒動員されたのは1943年、14歳から。「14歳を動員するようじゃ敗けるね」
とても小柄なのは、成長期にちゃんと食べていなかったせいである。
財産もおおかたなくなったので、戦後は洋裁学校に通い、洋裁で身を立てた。彼女もまた男性が死にすぎたせいで40代まで独身だった。ワイの祖父とお見合いするまでは。(妻を亡くした祖父の後妻で、ワイと血は繋がっていない。)

祖父Kは戦争当時30代で徴兵されないと思われたが、なんとされた。妻子や家業と離れ、豊橋の軍港で“老兵”として働いた。そこで激しい飢餓に遭った。あるとき農家の娘さんが桃をくれたことがあり、うまさが忘れ難いと、自分史に綴っている。
祖母S(祖父の前妻、ワイと血の繋がった祖母)は、町内で何かの会の会長をしていたそうである。国防婦人会とかだろうか…。幼児期を東京で暮らしてSの記憶がほとんどないワイが言うのもなんだが、話に聞く彼女の人となりからして、進んで会長をしたがる人ではない。一応田舎の名家の跡取り娘だったから、言われたら引き受けざるをえなかったのではないか。Sはめちゃくちゃ多忙だったらしい。夫が兵隊にとられ、子どもは複数、家業を切り回し、現場で働く女だった。

うー、まだまだあって8/15の今日中に書いときたいけど、体力がやばいー
_(┐「﹃゚。)_

母の兄Y(故人)とS。少年時代は近所の山で「チャンバラごっこ」「兵隊ごっこ」をしていた。自分たちもいずれ徴兵されるのだろうと思っていた。玉音放送を聞いてどう感じた?と聞いたら、「なんとも思わんかった」「思わんかったなぁ」と顔を見合わせた。感情が麻痺していたのかもしれないし、単に当時は終戦の意味がわからなかったのかもしれない。
戦後の食糧難のほうが成長期の辛い記憶として残っているそうだ。「とにかくいつも腹が減っとった」「何年も配給米だったし」
空襲被害のない半農村でもひもじかったのである。終戦時4歳前後の母などは、「この世においしい食べ物があることを少し大きくなるまで知らんかった」。

母の人生最初の記憶は、防空壕の暗がりで怯えていたこと。ワイは長いこと、それは市街地の方向が空襲された日のことだと考えていた。三河地震の日だったかも?と母は言ったが、ワイには地面が揺れて穴倉に避難するとは信じ難かった。しかし母の兄たち曰く、防空壕はとても頑丈な作りだったから、地震避難も充分考えられるとのこと。
三河地震は死者行方不明者3500人近い大災害だが、報道管制され、救援がほとんどなかった。母の家は無事だったが…。
戦後、母ははからずも「ギブミーチョコ」をしたことがある。兄や近所の年上の子らに連れられて遠くの線路へ行った。土手で待っていると、汽車が現れ、白人の兵士が窓から身を乗り出して、子どもらに飴などを投げた。母は光景は鮮烈に覚えているが、何をもらったかもその味も、覚えていないそうである。
母の家庭も裕福なはずだったが、長い間満足に食べられなかった。卵1個でもご馳走だった。あるとき後で味わって食べようと、卵焼きを戸棚に隠した。しばらくして見たら消えていた。母は「悔しくって悔しくって…食べ物の恨みは恐ろしいよ〜」と語っていた。

これも戦後の話だけど、母の小学校では児童全員が頭にGHQ支給のDDT(殺虫剤)をかけられた。シラミが普通にいたそうだ。
昼休みには、給食はなかったが脱脂粉乳は出された。まだ「おいしい食べ物」を知らなかった母にとっても超まずかったそうだ。

父方母方の戦争体験談はまだまだあった気がする。どっちも親戚がめっちゃたくさんいるし。けど、今日はここまで。
心身の調子悪い。台風のせいだ💢

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