※参考
“麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった”
https://s.japanese.joins.com/JArticle/250960?sectcode=A10&servcode=A00
1939年当時、麻生セメントには約1000人の朝鮮人労働者がいた。取材に同行した在日史学者のパク・グァンス氏は「石炭の炭鉱ではダイナマイトを使って作業し、そのたびに大規模な人命被害が発生したが、石灰の石炭鉱では重労働によって一日に1~2人が亡くなった」と説明した。「1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、自由のない収監所同然の生活だったと付け加えた。