私は盲従は学校以前、家庭から始まっていると思っている。

よりニュアンス的に正確に言うと、盲従というよりは一体感なんだよな、日本の場合。空気を乱さない、せっかくの厚意に対しては厚意で返す的な。

日本の学校の管理教育や卒後の企業の管理体質が功を奏しているのは、家庭の中で物心つく前の人格のコアな部分がそうやって既に作られているから。

だから日本の場合、基本は、欧米のようなハッキリそれとわかるような強権力はそれほど必要なくて、何と言うか真綿で首を絞める方式なのよね。責任者が存在しない、本人が自主的に忖度する方式。殴る蹴るする教師や先輩がいても欧米の強権力とは微妙に…かつ本質的に違う気がする。

フォロー

家庭の中で、子どもが個として尊重されたり、人権がある存在として扱われることは日本ではまずないことの方が多い(因みに、子どもなのに親のお友だちのように扱われるのは、子どもとしての人権が尊重されている状態ではない)。親の付属物または都合のいい仲間のように扱われていることが大半だと思われる。学校の管理教育もその延長上にある。

私自身がそうだったけれど、日本の多くの家庭では、子どもに本人の気持ちを訊ねたり、意見を求めたりと言うこと自体ほとんどしないのではないかな。そりゃあ「今夜の夕飯何食べたい?」くらいの話はするだろうけど。真面目な話を言語化して話し合う習慣がない家庭の方が多いんじゃないか。

よく言えば阿吽の呼吸で分かり合えるというか…。言葉にしてしまうのは照れ臭かったり野暮だったり水臭かったりする(他人行儀にして距離が出来ることは関係が冷たくなるようで親子で恐れてしまう)と言う無言の了解がある。実はそれでは人権の感覚は生まれない(育たないと言う以前に生まれない)。

私は大人になって、…と言うか、いい年になってから、初めて心理療法を受けたのだけど、いちいち気持ちを訊ねられ、それを言葉で説明しなければならないことにかなり戸惑い、困ったし、同時に初めて自分の気持ちを誰かにちゃんと訊いて貰った(“聴いて貰った“でもあるのだけど、それ以前に“訊かれた“のが新鮮だった)感動があった。

「そう言やあ、親にそんなことされたことなかったな」と思ったものだった。うちは特別酷かったのかも知れないけど…。

多分、思うに一般的に日本の家族は、真面目な話を(良い話も悪い話も)家族で言葉にして伝え合う機会がとても少ないのではないか。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。