「自己責任」などという名分を押しつけて自らの機能不全を正当化する行政を批判することと、社会のことばかりインターネットに書き散らかしていないで身の回りの生活からすこしでもマシなものに整えていこうよという気分はほんらい同居するはずなのだが、「自己責任」というタームを一元的に適用することでうまく並記することができないでいる。
個人的なことは政治的なことであるが、それは「ぜんぶ個人のせい」から「ぜんぶ社会のせい」へシフトするための号令ではない。
この固有の生活がほかならぬ社会システムによって大部分を規定されているというのは事実であるが、だからといってこのことを自覚するだけでは無力感を募らせるだけでもある。個人で直接に社会のシステムを書き換えることはできないからだ。
個人の生活における政治とは、日々知らない人に親切にするとか、ポイ捨てをしないとか、誰かの不当な行為を見かけたらお節介にも介入するとか、そういうことでもあって、具体的な範囲での社会の変革はそういう地味でしんどい行動の積み重ねから始められる。
そういうようなことを書きたかったのかもしれない新刊『会社員の哲学』、よろしければご一読ください。
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誠実であろうとする人ほど、遠くの誰か、石を投げても安心な抽象的な「社会」を憂い憤ることに心身を消耗して、自分の生活が疎かになってしまうの、やだ。
とはいえこれはある程度の生活の余裕を確保したからこその発言であって、なけなしの余裕すら想像できない境遇にいる人は、すべて社会のせいだから、できていないことを気に病む必要はない。
そんなクソな社会にちゃんと中指を立てるためにも、まずは利己的に生活の余裕を確保することに全力を振り向けてもいいとは思う。