丸藤亮の貫いたデュエルスタイルは、吹雪が看破した通り昔から一貫したものだった。それは彼自身が言った通り「完璧」という限界を持つスタイルであり、それはどのような限界かと言えば、パワーボンドに象徴される諸刃の剣的な限界であり、墓地肥やしに象徴される犠牲を伴う強さという限界であろう。より強い力を得ることで自らの命を縮める、というような。
そのような命を極度に燃焼させる戦い方で、行けるところまで行った、その戦い方でできる全てのことをした、というのが彼のあの最後のデュエルで、彼は彼のデッキでできる最高のことをしたし、逆に言えばそれ以上はないという臨界点まで到達してしまった、ということになる。
彼のデッキが彼の戦い方を規定し、運命づけ、到達点をも暗示する、というこの描き方が本当に私は好きだ。
その上で、丸藤亮にも超えられないものもあった。彼が心臓に病を抱えた原因は、戦いを渇望するデッキによるの心身への負荷にあった訳だが(デッキ由来の負荷って何だよというのはさておき)、図らずも彼のデッキを受け継いだ翔は、デッキを自分なりに組み替えることでその負荷から脱却し、その上で更にデッキを進化させる。
ヘルカイザーが命を賭けて編んできたデュエルスタイルとは、パワーボンドや墓地肥やしに象徴される、強大な力と引き換えに自らの命を縮めるような戦い方だったのだけれど、翔はそこにドラゴンロイドをはじめとした手札を合わせることで、自分自身の命(≒LP)を削らずとも勝てるようなデッキへ組み替えていった。
丸藤亮には「パーフェクト」という限界がある。それを彼は卒業の際に十代に告げている。彼一人ではそれを打破できなかったけれど、デッキを翔に譲ることで、彼のデッキはパーフェクトの先を行くことになった。
彼が魂を削りながら歩いた道は、危険ではあったけれど否定されるべきものではない。その先がある。そういう描き方が好きだなあ、と改めて感じた。