ゲオルギーネが真の意味で責任を担える範囲はどこからどこまでだったのだろう、と考える。自己は他者によって育てられざるをえない。では自己が自己を担うことはどこまで可能なのだろう。ゲオルギーネのどこまでが本人の担い得る自己で、どこからが担いきれない自己だったのだろう。
「ここから」「ここまで」という風に線を引くことは土台無理なのだけれど、それでも考えてしまう。ヴィルフリートについてもそうだ。彼は弟妹にとって迷惑な兄だし無神経な兄だが、では彼は自分が他者にとって無神経で迷惑な存在であることをどれくらい担えるのか。担えないのではないか。担えないという観点が読者には足りない、そしてフロレンツィアが「ヴィルフリートには(少なくともすぐには)担えないのだ」という認識に至るまでの年月が、この物語のほぼ全編を占めているのではないか。